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旭将軍・木曾義仲~その出自から最期まで

2018年01月19日 公開
2022年04月11日 更新

1月20日 This Day in History

木曽義仲
 

木曾義仲が近江国粟津で討死

今日は何の日 寿永3年1月20日

寿永3年1月20日(1184年3月4日)、源義仲(木曾義仲)が近江国粟津(現在の滋賀県大津市)で討死にしました。『平家物語』で、旭将軍と称された武将です。

義仲は久寿元年(1154)、源義賢の次男として、武蔵国大蔵館(現在の埼玉県比企郡嵐山町)で生まれました(出生地は異説あり)。幼名、駒王丸。 翌久寿2年(1155)、父・義賢はその兄・義朝と対立、義朝の息子・義平が大蔵館を襲って、義賢を討ちました。この時、2歳の義仲は、武蔵武士団の斎藤実盛によって、信濃の中原兼遠のもとへ逃がされます。

中原兼遠は義仲の乳夫となり、義仲をその腕に抱いて、木曾谷へと逃れました。 義仲は木曾次郎と名乗り、兼遠の子・樋口次郎兼光、今井四郎兼平らとともに木曾の山中で成長します。兼光、兼平はやがて、義仲の重臣となりました。一説に巴御前も兼遠の娘ともいいます。

治承4年(1180)、以仁王が平家追討の令旨を発すると、義仲はこれに応じて9月に挙兵。 翌年、信州小県に越後から平家方の城助職が1万の軍勢で攻め込むと、義仲は3000の兵で迎撃し、横田河原の戦いで破りました。義仲はそのまま北陸路へ駒を進め、翌寿永元年(1181)、北陸に逃れてきた以仁王の第一王子・北陸宮を庇護し、勢力を伸張します。

いぅぽう鎌倉の源頼朝は前年に富士川で平家方を破っていました。義仲は、その頼朝のもとを追い払われた叔父の源行家らを庇護したことで、義頼朝との関係が悪化します。これを受けて義仲は、息子・義高を鎌倉に送って、関係を修復につとめました。

寿永2年(1183)5月11日(日付は諸説あり)、越中・加賀国境の礪波山に陣取る平家軍およそ10万に、2万の義仲は夜襲をかけました。一説にあらかじめ平家軍の退路に樋口兼光の一隊を置き、角に松明をつけた牛の大群を敵陣に突っ込ませたといいます。平家方は大混乱に陥り、逃げ場を失った兵の大半が倶利伽羅峠の断崖から落ちて、壊滅しました。このいわゆる「火牛の計」が創作なのか、それに類することが実際に行なわれたのかはいまだに諸説あります。とはいえ、義仲が一夜にして平家の大軍に勝利したことは事実で、この大勝はたちまち諸国に知れわたります。

倶利伽羅峠、火牛の計

参陣する者が相次ぎ、2万の義仲軍が進軍して比叡山に至る頃には、8万にまで膨れ上がったといいます。義仲軍を前に比叡山は山門を開き、都の鬼門に源氏の白旗が林立することになりました。これを目の当たりにした平家はその夜、安徳天皇と神器を擁して、西国へと落ちました。後白河法皇はいち早く比叡山に逃れたことで、平家方の手から逃れています。

寿永2年7月、平家の都落ちで混乱する京に義仲は入りました。義仲は朝廷より従五位下左馬頭・越後守、さらに伊予守に任ぜられ、『平家物語』には「旭将軍」の称号を得たと記されています。義仲は自軍が擁する北陸宮の即位を申し立てますが、後白河法皇はこれを却下しました。

義仲にとっての難題が、京都の治安維持です。食糧事情が悪化していた京都に大軍が入ったことで、略奪騒ぎが続きました。義仲は狼藉の現場で配下を捕えると、衆目の前でその首を刎ねた記録もあり、彼が治安を保とうと苦心していたことは間違いありません。しかし後白河法皇は9月、義仲に西国の平家追討を命じ、京都から追い払いました。

そこへ鎌倉の頼朝から平家が横領した院や宮家の領地を返還する旨の申し状が届き、法皇は大いに喜びます。播磨で平家軍相手に苦戦する義仲は、鎌倉軍が西上している報せに、あわてて京に戻りました。 義仲は鎌倉軍と戦う覚悟を固めますが、法皇は「直ちに西国に下り平家を追討せよ。院宣に背いて鎌倉軍と戦うのであれば、それは義仲の私戦である。京都に逗留するというのであれば、謀叛と認める」と最後通牒を発します。

義仲は「君に背く気はいささかもない。鎌倉軍が入京すれば戦わざるを得ないが、入京しないのであれば西国へ下る」と応え、九条兼実はこれを「義仲の言い分は穏便な、もっともなものであり、院のご用心は法に過ぎ、王者の行ないではない」と評しました。窮した義仲は11月、後白河法皇の法住寺殿を襲撃、法皇を摂政邸に幽閉すると、院御厩別当となり、軍事の全権を掌握。九条兼実は義仲を「天の不徳を戒める使い也」と評しています。 さらに義仲は、源頼朝追討の院庁下文を発給させました。 

寿永3年(元暦元年、1184)、鎌倉軍が美濃まで来たことをつかむと、義仲は1月11日に征夷大将軍(征東大将軍とも)に任ぜられ、鎌倉軍と宇治川の戦いで衝突。しかし鎌倉軍6万に対し、義仲勢は2000しか集まらず、惨敗します。義仲主従は敗走しますが、近江国粟津に至ったところで、『平家物語』では今井兼平が、自分が時間を稼ぐ間に松原で自害することを勧めます。義仲は今井の進言を容れ、松原に向かいますが、夕闇の中、誤って馬を薄氷の張った深田に入れ、身動きできなくなったところを敵に討たれました。享年31。

義仲が討たれたと知ると、今井も「これを見よ。日本一の剛の者の死に方ぞ」と太刀の先を口に含み、馬から逆さまに落ちて、貫かれて死にました。 義仲の墓は滋賀県の義仲寺が芭蕉の墓とともに有名ですが、中仙道宮ノ越宿の徳音寺には、義仲とともに義仲の生母(小枝御前)、今井兼平、巴御前、樋口兼光の5人の墓碑が並んでいます。

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