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梶原景時の乱~嫌われ景時の一生

2018年01月19日 公開
2022年07月25日 更新

1月20日 This Day in History

梶原景時終焉の地・梶原景時親子供養塔
梶原景時終焉の地・梶原景時親子供養塔(梶原山公園・静岡市清水区)
 

鎌倉幕府御家人・梶原景時が討死

今日は何の日 正治2年1月20日

正治2年1月20日(1200年2月6日)、梶原景時が没しました。鎌倉幕府の御家人で源義経と対立し、源頼朝に讒言した悪役のイメージで語られることが多い人物ですが、果たしてどうであったのでしょうか。

景時は保延6年(1140)頃、坂東八平氏の流れを汲む梶原景清の息子として生まれました。梶原氏はもともと源氏の家人でしたが、平治の乱で源義朝が討たれた後は平家に従います。

治承4年(1180)、源頼朝が伊豆で挙兵すると、景時は同族の大庭景親らとともに石橋山の合戦で頼朝を破ります。頼朝は山中に逃れ、これを追った景時はその所在をつかみながら、あえて味方に知らせませんでした。頼朝は景時を命の恩人として記憶します。その後、再起した頼朝が鎌倉に入ると、景時は降伏して養和元年(1181)に頼朝と対面、晴れて御家人となりました。42歳の時のことです。

以後、景時は能吏ぶりを頼朝に認められ、ほどなく侍所の所司に抜擢されます。 侍所とは防衛省と検察庁を合わせたような組織で、軍事政権である幕府の中枢を占める役所でした。役所の長官を別当といいますが、別当は多分に名義上のもので、実権を掌握しているのは所司であったといいます。

寿永2年(1183)、鎌倉政権においても飛びぬけた軍事力を持つ千葉上総介広常と双六をしていた景時は、突如、広常を討ち取りました。これは強大な軍事力をもつ広常を警戒する頼朝の意を受けたとも、景時が頼朝の心中を忖度して行なったともいわれます。いずれにせよ、この一件で頼朝はさらに景時を信頼するようになりますが、周囲の御家人たちは景時を嫌いました。しかし同時に、頼朝の信頼を背景に目付役としてにらみ、違反があれば容赦なく糾弾する景時は、御家人たちから恐れられる存在にもなっていきます。

そんな景時が本領を発揮するのは、平家攻めの時でした。景時は土肥実平とともに軍奉行に任じられます。いわば源氏方の総指揮官でした。その軍奉行の上に、頼朝の名代として弟の範頼と義経がいました。 軍事については誰もが軍奉行の指揮に従わねばならず、景時ら軍奉行は頼朝に代わって軍全体に目を光らせることから「目代わり」と呼ばれます。一方、義経らは源氏の象徴であり、「身代わり」と呼ばれました。

頼朝は出陣にあたり、身代わりは目代わりとよく相談し、互いに補い合って行動するように命じます。そこで土肥実平は範頼と組み、比較的うまくいきましたが、景時は義経と組んで、ことごとく対立します。その代表的なものが、屋島の合戦での「逆櫓」でした。屋島の平家軍を攻める際、景時は船に逆櫓をつけて、自由に進退することを主張しますが、義経は「退くための仕度など無用」とこれを一蹴。強気の攻めで鮮やかな勝利を収め、景時の鼻をへし折りました。これを怨んだ景時は、以後、義経の悪口を頼朝に書き送ったといわれます。「梶原景時の讒言」です。

やがて頼朝と義経は不仲になり、義経は悲劇的な最期を迎えました。それは景時が讒言したからであると、後世の義経贔屓から景時は徹底的に嫌われることになります。しかし建久3年(1192)、景時は和田義盛に代わって侍所別当を就任し、頼朝からいよいよ重んじられました。武功だけでなく、事務能力にも長けていた点が買われたようです。

正治元年(1199)、頼朝が死去すると、景時も力を失うかと思いきや、その権限は健在でした。なぜなら景時は、2代将軍頼家の乳母夫であったからです。乳母夫とは文字通り、乳母の夫のことで、特別政治秘書のような存在でした。そんな折、頼朝の供養を行なった結城朝光が「忠臣は二君に仕えず」と発言したことに、景時は「それは新将軍に仕えたくないという意味か」と謀叛の志としてとらえました。結城朝光は御所の女房の阿波局からそのことを耳打ちされて仰天し、あわてて親友の三浦義村のもとに逃げると、反撃に出ます。それが景時への弾劾状で、書面には66人もの御家人が署名し、将軍頼家に差し出されました。

頼家から弾劾状を示された景時は、意外にも一言も弁解せずに鎌倉を去って、在所の相模一宮に帰ります。翌正治2年(1200)、手勢を率いて上洛しようとしたところ、駿河で土地の御家人に討たれて、一族とともに最期を遂げました。享年61。

景時の行動は一見不可解ですが、結城朝光に耳打ちした女房・阿波局が、実は頼家の弟・実朝の乳母であることを考えれば、見えてくるものがあります。阿波局にすれば、実朝のために、頼家を支える有力者・景時の追い落としを図ったのではないか。そして景時はそれを見抜き、頼家に警告したものの、受け入れられなかった。景時を信頼してくれていた頼朝とは全く違う主君であることに、景時は絶望したのかもしれません。思えば義経への讒言も、頼朝のためを思ってのことで、頼朝はそんな景時の献身的な働きに応え続けました。

そして景時の危惧通り、頼家は悲劇的な末路をたどります。 自暴自棄にも見える一族を連れての上洛は、もしかしたら鎌倉のあり方に絶望した景時が、新たな安住の地を求めての行動であったのかもしれません。

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