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結城秀康~薄幸の人生も、豪胆さで一目置かれた武将

2018年02月08日 公開

歴史街道編集部

結城秀康
結城秀康像(福井県福井市、県庁舎前広場)
 

結城秀康、徳川家康の次男として生まれる

今日は何の日 天正2年2月8日

天正2年2月8日(1574年3月1日)、結城秀康が生まれました。徳川家康の次男で、養子に出されたため跡継ぎになれなかった、薄幸の武将として知られます。

結城秀康は天正2年、家康が33歳の時に次男として浜松城下有富見(うぶみ)村に生まれました。母親の於万の方は、家康の正室・築山殿のお付の女中であったといいます。築山殿は於万の懐妊を知って怒り、折檻したため、於万は本多作左衛門に匿われて、その屋敷で出産しました。子供は双生児でしたが、一人は死産。もう一人は於義丸と名づけられます。これが後の秀康でした。名前の由来は顔がギギという鯰の一種に似ていたからといわれ、家康の愛情をあまり感じさせない逸話でしょう。実際、家康は秀康の目通りを許しませんでした。あるいは築山殿の嫉妬を警戒したのでしょうか。しかし、秀康よりも16歳年上の兄・信康が機転を利かせ、2歳の弟の手を引いて目通りを強行します。家康は戸惑いの表情を見せたものの、やがて秀康を自分の膝の上に乗せました(『藩翰譜』)。

本能寺の変から2年後の天正12年(1584)、小牧・長久手で羽柴秀吉と争った家康は、優勢のうちに合戦を終えますが、政略的には秀吉が上回りました。そこで両者の和解の証として、大坂城に赴いて秀吉の養子となったのが11歳の秀康です。秀吉は秀康を大歓迎して元服させると、自分の秀と家康の康の字を与えて、「羽柴三河守秀康」と名乗らせました。秀吉、家康ともに秀康はあくまで養子であって人質ではないと考えていましたが、周囲はそうは見ません。秀吉配下の者の中には、秀康を人質扱いする者もいました。すると秀康は怒り、「われ不肖なりとも、家康の実子にして、当家の養子たれば、旗下の賤人ども、いかでかわれを軽蔑する様の有るべき。今より後、無礼のある者に於いては、即座に討ち果たすべし」(『松平津山家譜』)。秀康の覇気を感じさせます。

また、秀康が伏見の馬場で馬を走らせていた時、秀吉の馬係の者が並んで走ったのを見て、これを無礼討ちにしました。その話を聞いた秀吉は、秀康の威厳を褒めて不問に付します。しかし心中密かに秀康の胆力を恐れたのか、翌年、秀康は結城家に養子に出されました。秀康が養子に出された最大の理由は、天正17年(1589)に秀吉の実子・鶴松が生まれたことにあります。鶴松は生後4カ月で秀吉の後継者に指名され、秀康ら養子たちは他家に養子に出されました。秀康は結城晴朝の養子となり、下総結城5万石の領主となります。 結城氏は関八州を押さえる徳川家康の配下であり、秀康は図らずも父・家康のもとで徳川大名に返り咲くことになりました。時に秀康、16歳。

文禄4年(1595)、五奉行の石田三成が福島正則ら7人の将の襲撃を受けた際は、三成の駕籠をその居城・佐和山まで秀康が護衛しました。三成は秀康に感謝し、礼に正宗の名刀を贈っています。そして慶長5年(1600)、関ケ原。石田三成の挙兵が伝わった時、家康の3人の息子たちの反応を予想した記述が『永井直清覚書』にあります。すなわち「いつも物を案じる秀忠(3男)は、天下を取り損なわないかと思慮し、忠吉(4男)は、ただいきり立って、高名せんと喜ぶだろう。そして秀康(次男)は、この乱れの序を面白く思い、天下を取ることもあらんと思うだろう」。つまり徳川の家臣は、3人の息子の中でも秀康に最も将器を見出し、期待していたのです。

果たして反応は記述の通りでしたが、家康の判断は異なりました。秀忠を主将とし、秀康と忠吉はそれに従軍させたのです。家康も内心、相当な葛藤はあったようです。ある時、相撲興行において、無敵といわれた前田利長お抱えの力士を、秀康のお抱え力士が投げ飛ばしたことがありました。観客は興奮して騒ぎ出し、収拾がつかなくなりかけますが、秀康が立ち上がって周囲を睨みつけると、観客は一瞬で静まります。 「今日の見物では、秀康の威厳に驚いた」と、家康は周囲に語りました。

秀康の器量を十分知っていた家康ですが、後継者に選んだのは秀忠です。優れた武将としての資質を備えた秀康を、かえって警戒したのかもしれません。家康は秀康を関ケ原にも連れてゆかず、会津の上杉の押さえとして関東に留めました。ただし家康も秀康をないがしろにしたのではなく、「上杉の押さえはお前にしか頼めぬ」と懇々と説き、自分が若い頃から愛用していた鎧をその場で秀康に譲りました。傍らにいた本多正信も秀康の膝を叩き、「これで徳川の御子でござる」と喜んだといいます。

関ケ原の後、秀康は下総結城10万石から、一躍越前67万石に大加増を受けました。大封を得た秀康のもとには、その威風を慕って多くの名のある将が集まったといいますが、家康や秀忠の目には、警戒すべきことと映ったようです。

慶長12年(1607)、秀康は越前北ノ庄城で病没しました。享年34。家康はその訃報を受けて、大いに落胆したともいいます。将器を備えた次男に対し、家康の抱いていた思いは複雑であったのかもしれません。

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