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高田馬場の決闘~助太刀の堀部安兵衛が18人斬り!?

2018年02月11日 公開

歴史街道編集部

堀部安兵衛

堀部安兵衛武庸銅像(新潟県新発田市)
赤穂義士討入の47士の一人、堀部安兵衛武庸は新発田出身。新発田城本丸表門前の城址公園内にある安兵衛像は、江戸の方角を向いて立っている。
 

高田馬場の決闘が起こる

今日は何の日 元禄7年2月11日

元禄7年2月11日(1694年3月6日)、高田の馬場の決闘がありました。中山(堀部)安兵衛の助太刀で知られます。今回は講談調もまじえつつ、ご紹介してみましょう。

義理の伯父で、伊予西条藩の菅野六郎左衛門が、同藩の村上庄左衛門との果し合いに臨むと知った中山安兵衛は、決闘が行なわれる高田の馬場へと韋駄天走り。村上はかねてより菅野に面白くない感情を抱いており、ある席で菅野に暴言を吐いて叱責され、弟と相談のうえ、果たし状を突きつけたものでした。

菅野は村上側に奸策があることをうすうす気づいてはいましたが、果たし状を送られた以上、受けて立たねば武士として怯懦のそしりを免れません。そこで菅野は、決闘に赴く前に、日頃、目をかけていた越後新発田浪人の安兵衛に、「争いは好まないが、武士の意地によって決闘に行く。もし討たれたら、妻子の面倒を頼む」という訣別の手紙を送っていました。

決闘の当日に手紙を読んだ安兵衛は、今まで世話になった菅野の一大事に仰天します。そして、自分がやるべきは菅野の妻子の面倒をみることではなく、助太刀であると腹を決め、長屋を飛び出したのでした。

中山安兵衛は寛文10年(1670)生まれの25歳の若者です。新発田藩士の父の冤罪により浪々の身となり、上州で馬庭念流を学んだ後に江戸に出て、小石川の堀内源太左衛門の道場で一刀流(異説あり)を研鑽していました。菅野もまた西条藩の剣術指南役で、安兵衛とどうした経緯で知り合ったのかは定かでありませんが、安兵衛を見所のある若者として実の甥のように接し、仕官の折には身元保証人になろうと引き受けてくれていました。安兵衛にとってはかけがいのない恩人です。

さて安兵衛は、大家の娘から浅黄鹿子のしごきを借り、麻裏草履を引っ掛けて、牛込竹町を脱兎の如く飛び出します。そして駆けに駆け、牛込馬場下まで来ると酒屋が目に入ったので、店に飛び込んで桝酒を一杯、一気に飲み干すと、さらに高田の馬場へと駆けました。

安兵衛が到着すると、菅野はすでに村上らと斬り合っており、体に数箇所、傷を負っています。見れば村上方は、弟や槍術師範の中津川祐見ら7人で菅野を取り巻いており、一方の菅野は、家来を含めて4人で、完全に押されていました。

福本日南の『元禄快挙録』には、こうあります。

「多勢に無勢、且つは老人、菅野は既に身に数創を被った。安兵衛は看るより気は貅(ひ)の如く『卑怯なり』と大喝一声、旋風の如く切り入って、村上三郎衛門に渡合ひ、忽ちにして物の見事に斬って棄て、今しも中津川祐見が、(菅野)六郎左衛門の背後に回り、不意を打たんとする所を、安兵衛又また走りかかって斫仆(きりたお)した…」

安兵衛が斬ったのは2人とも3人ともいわれ、講談や芝居では「18人斬り」となっています。村上三郎右衛門と切り結んでいる折、相手の切っ先が帯を切り、着物の前が広がって裾が足にからまりました。この教訓から、後年の吉良邸討ち入りの際、安兵衛は赤穂浪士の帯に鎖を仕込ませたともいいます。

安兵衛の助太刀で村上方のほとんどを倒し、菅野は決闘に勝利しますが、受けた傷は深く、屋敷に戻る途中で自害したとも、屋敷にたどり着いてから息を引き取ったとも伝わります。

この安兵衛の活躍を知った赤穂浅野家家臣・堀部金丸は安兵衛との養子縁組を望みます。そしてこの決闘から8年後、安兵衛は赤穂浪士の一人・堀部安兵衛として、吉良邸討ち入るのです。

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