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黒江保彦~隼戦闘隊の名指揮官

2018年02月16日 公開
2022年06月20日 更新

2月17日 This Day in History

一式戦闘機 隼
 

撃墜王・黒江保彦が生まれる

今日は何の日 大正7年(1918)2月17日

大正7年(1918)2月17日、黒江保彦が生まれました。日本陸軍の戦闘機パイロットで、加藤隼戦闘隊において加藤隊長亡き後、多くの隊員から慕われた名指揮官として知られます。

黒江の写真は何枚も残っていますが、立派な体格に丸顔。いかつい顔に人懐っこい笑みを浮かべるその容姿から、彼の人柄が伝わってくるような気がします。黒江は大正7年、元陸軍少佐で鹿児島県伊集院町長の黒江敬吉の4男に生まれました。昭和13年(1938)に陸軍士官学校航空分校を20歳で卒業、同年10月に飛行第59戦隊附となり、漢口飛行場において実戦訓練を受けます。昭和14年(1939)にノモンハン事件が起こると、第59戦隊は満蒙国境の採塩所飛行場に転進。ソ連軍戦闘機を2機撃墜したのが、黒江の初陣となりました。その後、内地に戻り、昭和16年(1941)には陸軍航空審査部に転任。同審査部で編成された独立飛行第47中隊「新撰組」に編入されます。

同中隊は、二式単座戦闘機「鍾馗」を使用していました。同年12月の太平洋戦争開戦前に第47中隊は南方に移動し、開戦後はシンガポール攻略戦に参加。黒江は敵機1機を撃墜。これが鍾馗による初撃墜となります。 そして昭和17年(1942)4月、黒江はビルマ(現在のミャンマー)の飛行第64戦隊に異動しました。この部隊こそ、加藤建夫少佐を隊長とし、開戦以来、赫々たる武勲を上げた「加藤隼戦闘隊」です。ちなみに隼の名の通り、愛機は陸軍の主力戦闘機・一式戦闘機「隼」を使用していました。

黒江は手記の中で加藤隊長について、次のように記しています。「はたして翌日、ビルマの千切れ雲の上を征く加藤隊長機には、恐るべき闘志と迫力が感じられて仕方がなかった。(中略)『勇将のもとに弱卒なし』。この隊長のもと、なるほど部下は奮い立つ以外にない。それは私が、生涯において感じたことのなかった大空での圧倒的な迫力だった」。 しかし同年5月22日、加藤はベンガル湾上空で敵爆撃機と空戦の末、被弾し、戦死しました。黒江が加藤とともに過ごしたのは僅か1カ月。 血気盛んな黒江が部下を空戦で失い、悲嘆している時、加藤が「敵を撃墜するばかりが戦闘機の任務ではない。決して戦果を競ったり、派手に動くものではない」と諭してくれたこともあったといいます。

加藤隊長亡き後、「加藤隼戦闘隊」こと第64戦隊の牽引役を担ったのは、最先任中隊長の黒江大尉と、檜與平中尉でした。その頃の黒江について、戦友はこう語っています。「ニコニコとした笑顔で命令を与える。そうするとね、不思議と闘志が湧く」。

また、こんな証言もあります。「豪傑だけど、空に上がったら緻密な人なんだよね。あれだけの戦をやって、生き残るにはある程度、緻密じゃないとね」。実際、黒江の戦闘指揮は緻密で、3機編隊で敵に挑む時、見事な連繋で敵を撃墜することから、「最強編隊」と呼ばれました。

しかしその後の第64戦隊は、インドや中国を拠点に戦力増強を図る連合軍航空隊の前に苦戦を強いられます。隼1機で敵を20機、30機落としても勝ち目がないほど、物量の差が広がりました。昭和18年(1843)には、ビルマ周辺に配備された敵機約1500機に対し、第64戦隊の可動機は30機程度という事態となります。それでも、彼らは屈しませんでした。時には味方爆撃機とともに、敵基地を奇襲することもありましたが、そんなある日。基地攻撃から帰還途中、黒江は味方重爆撃機隊の指揮官機が高度を下げ始めたことに気づき、上空掩護に付きます。そこへ敵戦闘機が急降下で襲いかかり、黒江は敵を牽制しますが、重爆は一撃を喰らってしまいました。さらに高度を下げる重爆に黒江が追随すると、途切れ途切れに無線電話が入ります。

「戦闘機、援護、御苦労サン、アリガトウ…アリガトウ」

重爆隊指揮官の原大尉の声でした。 黒江は胸がつまり、返事できません。無線は小さく「アリガトウ…アリガトウ」と繰り返すと、やがて重爆は失速してジャングルに落ち、火柱が上がりました。最期のお礼の言葉を残し、散っていった原大尉の気持ちが痛いほど胸を貫いた、と黒江は手記に残しています。

昭和18年11月、その頃、イギリスの高速偵察機モスキートが、白昼堂々頻繁に偵察に現われては、隼が追いつけずに逃げられていました。11月2日、モスキート発見の報に黒江はいち早く僚機の隅野中尉と迎撃、敵に発見されないようわざと離れて高高度まで上昇すると、急降下をかけて、後上空から必殺弾を浴びせて見事撃墜しています。一人で数十機を撃墜している黒江を、「空の宮本武蔵」と呼ぶ者もいました。

昭和19年(1944)1月、黒江は再び内地の航空審査部に異動となり、鹵獲したP51ムスタングを操縦して、日本軍のパイロットの育成にあたります。一方、隼戦闘隊は、終戦まで南方で戦い続けました。 黒江は戦後、航空自衛隊に入隊し、イギリス留学を経て、ジェット戦闘機の指揮官となります。昭和40年(1965)12月、悪天候の中、大好きな磯釣りに出かけて命を落としました。享年47。部隊葬では、飛行第64戦隊歌で送られたといいます。

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