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旅順口閉塞作戦。敵艦隊を無力化せよ!

2018年02月24日 公開
2019年01月24日 更新

2月24日 This Day in History

旅順港
二百三高地からのぞむ旅順港
 

日露戦争 第一次旅順口閉塞作戦

今日は何の日 明治37年2月24日

明治37年(1904)2月24日、第一次旅順口閉塞作戦が行なわれました。日露戦争の行方を占う、ロシア旅順艦隊(太平洋艦隊)に対する攻撃でした。

その20日前の2月4日、御前会議において、ロシアとの国交断絶と開戦が裁可されています。すでに満洲を不法占拠したロシアは、朝鮮半島へと触手を伸ばし、「朝鮮の北緯39度以北を中立地帯として認めよ」と日本に働きかけていました。日清戦争後の三国干渉の横槍によって、労せずして日本から遼東半島の利権を奪い取ったロシアは、さらに義和団事件の混乱の最中に満洲に大部隊を不法に送り込み、満洲占領の既成事実を作り上げています。

そのやり口からすれば、次に朝鮮半島の実効支配を狙っていることは明白でした。大国ロシアの南下の危機を前に、日本は「ロシアの満洲の権益を認める代わりに、日本の朝鮮半島における権益を認める」よう交渉しますが、ロシア側は一蹴、日本は悲壮な決意を固めざるを得ません。

日本がロシアとの戦争を決意した時、ロシアにいた栗野公使はフランス公使から、「これで、貴国ももうお終いだね」と声をかけられていました。それほど、大国ロシアと日本の戦力は隔絶していると、欧米諸国は見ていたのです。しかし、当時の日本軍の指揮官には、強烈な緊張感の只中にいながらも、いかにして戦いを有利に進めるか、冷静に考える者が多数存在していました。

2月6日、連合艦隊旗艦「三笠」座乗の東郷平八郎司令長官は、「連合艦隊は佐世保を出港、黄海へと進み、旅順港及び仁川港にある敵艦隊を撃滅せんとす」と下令します。当時、日本海軍艦艇の総排水量が26万トンに対し、ロシア海軍は51万トン。うち欧州のバルチック艦隊がおよそ31万トンで、日本海軍とすればバルチック艦隊が極東に回航される前に、ロシア太平洋艦隊の20万トンを撃滅しておかなければ、勝ち目はありませんでした。

2月9日未明、旅順に向かった連合艦隊のうち、第一駆逐隊が闇にまぎれて旅順港口に突入、在泊するロシア旅順艦隊に対して20本の魚雷を放ちました。しかし3本は命中したものの、撃沈した艦はなく、逆に連合艦隊の戦艦三笠、富士、敷島が被弾してしまいます。当時の旅順港は多数の要塞砲によって守られており、連合艦隊が港内に不用意に接近すれば、要塞砲の餌食になりかねません。それを知るロシア旅順艦隊は、港内から出ようとしませんでした。この事態に、考案されたのが旅順口閉塞作戦です。

旅順港は巾着袋の口のように湾口が狭く、出入り口の幅は270mで、戦艦や巡洋艦が通航可能な幅は91m。従って、この91m幅の水域に輸送船を沈めて通航不能にし、旅順艦隊を港内に封じ込めようとする作戦でした。しかし、旅順口まで輸送船を運び、沈める乗組員は、要塞砲の集中砲火を浴びるでしょう。危険な作戦であることに東郷司令長官は難色を示しますが、先任参謀の有馬良橘中佐と、戦艦朝日水雷長の広瀬武夫中佐が熱心に作戦の必要性を説きます。広瀬の親友である参謀の秋山真之は慎重派で、敵の砲撃が激しい場合には引き返すことを提案しますが、広瀬は「敵の猛射は覚悟のうえ。最初から退却を考えていては、何度やっても成功しない」と語気を強めたといいます。

18日、東郷司令長官は閉塞作戦を発令。全艦隊から志願者を募り、77人を選抜しました。閉塞船は5隻。天津丸に総指揮官の有馬中佐、報国丸に広瀬中佐が乗り組みます。自分が推進した以上、自ら危地に臨み、作戦指揮にあたるのは、彼らにすれば当然でした。

2月24日午前4時45分、閉塞船隊は有馬率いる天津丸を先頭に、旅順口に突入。即座にサーチライトが浴びせられ、各要塞砲が船隊を狙って、猛烈な砲撃を始めました。天津丸は海岸線に座礁、自沈を余儀なくされます。広瀬が乗る報国丸は、天津丸をかわして港口へと突き進み、砲撃を受けて炎上しながらも、港口近くの灯台下に爆沈させます。他の3隻もそれぞれ目標地点に達せず沈み、作戦は失敗しました。

しかし広瀬は、報国丸が沈む前にデッキの壁に白ペンキで、自分の名前とメッセージをロシア語で大書しました。「貴軍港を閉塞する。今回は第一回目で、この後もやってくる」。 これは広瀬の武人としての心意気を示すとともに、ロシア滞在中に恋仲となったアリアズナに、自分が健在であることを伝えるメッセージではなかったかともいわれます。

閉塞作戦の第二回は3月27日に行なわれ、これも失敗。広瀬は脱出の際、部下の一人が船内に残っていることを案じて探し回り、砲弾の直撃を受けて戦死しました。第三回は5月2日に実施されますが、またも失敗。閉塞作戦を断念した連合艦隊は、陸軍と協力して陸上からの旅順港砲撃に切り替えざるを得なくなり、乃木希典率いる満洲軍第三軍の旅順要塞攻撃が、海軍にとって極めて重要な意味を持つことになっていきます。

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