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松平春嶽と福井藩が目指した新しい日本~幻となったもう一つの明治維新

2018年03月09日 公開
2023年10月04日 更新

長尾剛(作家)

春嶽、決死の上洛計画

そして、時代はさらに激震する。

老中筆頭の阿部正弘が安政4年(1857)に死去すると、大老の座に着いたのが、家康の時代以来、徳川家に忠誠を尽くし続けてきた譜代大名の井伊家、その第15代彦根藩主たる井伊直弼である。

彼は、朝廷の意向をいっさい無視して、安政5年(1858)6月、幕府の権限のみで「日米修好通商条約」を調印してしまった。

春嶽をはじめ幾人もの心有る名君たちが、江戸城へ登城し、直弼の暴走を諫さめようとした。しかし直弼は頑んとして主意を曲げず、逆に春嶽たちを隠居に追い込んだ。

それだけではない。多くの尊皇攘夷の運動家やそれに近い者たちを、直弼は徹底的に弾圧した。まず、あの梅田雲浜が最初の犠牲者となって捕えられ、獄死した。その後続々と、心有る武士(志士)たちが理不尽に捕えられていった。

いわゆる「安政の大獄」である。

橋本左内もまた「直弼の政敵の側で動いていた」という、ほとんど濡れ衣の罪を着せられ、斬首された。享年わずかに26。

直弼は、そのあまりの独善性ゆえ、安政7年(1860)3月、尊皇攘夷の志士たちに暗殺される。「桜田門外の変」である。

けれど、これで問題が片づくものではなかった。それまでの直弼の拙攻的な徳川絶対体制政治を契機として、やがて日本国内は、反幕府(倒幕派)と親幕府(佐幕派)へと、真っ二つに分かれてしまうことになる。そして「戊辰戦争」という凄惨な内乱へと発展する。

しかし、その凄惨な戦いの歴史に足を踏み入れずに済むかも知れなかった大きな可能性が、じつはあったのである。

それが文久3年(1863)の、春嶽と福井藩による、藩を挙げての上洛と国政掌握の大計画である。

越前松平家は御家門のひとつとして、決して徳川家を見捨てることはしなかった。さりとて、単純に幕府の側について反幕府勢力とぶつかることの愚かしさも、よく理解していた。

ここにおいて、春嶽は悲壮とも言える決意をする。福井藩全藩を挙げて、その力をもって国内を統一する。由利公正らの努力のおかげで、福井藩にはそれを可能たらしめるだけの国力がある。しかるのち、反幕府勢と親幕府勢の仲立ちをし、平和的に日本を挙国一致の体制へと導く。そうすることで日本が一丸となって国際社会に立ち向かうのだ。──と。

しかし、この計画は土壇場で頓挫する。

なにしろ内容があまりにも壮大で、それだけに危険な賭けでもあった。さらに、将軍・徳川家茂が江戸に戻ったことにより、ついには、この「福井藩上洛計画」は幻と化した。この計画に日本の未来の光明を見出していた横井小楠も、熊本へと帰っていった。

そして慶応4年(1868)1月、「戊辰戦争」勃発。この薩長による倒幕の戦いに、春嶽は最後まで反対を訴えた。彼は日本人同士が争うことの愚かしさを悲しんだ。

だが春嶽の想いをよそに、倒幕派と佐幕派は最後まで歩み寄りを見せなかった。「戊辰戦争」は、多くの同胞の血を流しながら戦場を北上させ、ようやく明治2年(1869)の5月、箱館の五稜郭開城をもって終結する。かくして「明治維新」が完成するのである。
 

今こそ学ぶべき理想の政治

松平春嶽しかしそれは言い換えるなら、薩摩藩や長州藩が早々と徳川幕府に見切りを付け、佐幕派を情け容赦なくつぶしていった凄惨な結果でもあった。対して、春嶽率いる福井藩が目指したのは、徳川家を縮小しながらも存続させつつ、日本全国が一丸となって迎える平和的な新時代であった。

言うなれば、史実の「明治維新」がハードランディングだったとすれば、福井藩はソフトランディングによって、日本を生まれ変わらせようとしていた。福井藩の、このきわめてニュートラルな、バランス感覚に優れた政治方針は、あるいは史実における薩長の政治より、合理的で、なによりも温かな政治を生んだかも知れない。

薩長による明治政府も、内心ではそれを解っていたのだろう。福井藩から、数多くの人材を登用した。

春嶽は、明治3年(1870)に政界を引退するまで、政府に請われて民部卿、大蔵卿、大学別当などの要職を歴任した。由利公正は、王政復古後、新政府から財政担当の参与に任じられ、明治4年(1871)には東京府知事となって、近代的首都の構築に努めた。

そのほか、春嶽の側近として福井藩の藩政に尽力した中根雪江は、明治政府の実質的政務を執り行なう「参与 」に迎えられた。さらには、日本の近代教育の中枢にして最高学府たる帝国大学の初代総長を務めた渡辺洪基も、もと福井藩士である。橋本左内もまた、もし非業の死を遂げていなかったならば、政府の外交面において大きな仕事を成していたことだろう。

日本近代史において薩摩藩や長州藩の陰に隠れ、なかなか現代人に顧みられない福井藩ではある。

が、歴史に果たした、そして果たそうとしたその功績は、確かに大きなものだった。

ちなみに「明治」という元号は、じつは春嶽が選んだものである。

「この国を明るく、明らかに治めていく」という福井藩主・松平春嶽の理想が、そこには込められている。

 

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