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浅野總一郎~京浜工業地帯の父、「九転十起」の人生

2018年03月10日 公開
2019年02月27日 更新

11月9日 This Day in History


 

実業家・浅野總一郎が没

今日は何の日 昭和5年11月9日

昭和5年(1930)11月9日、浅野總一郎が没しました。82歳。一代で浅野財閥を築いた実業家で、臨海工業地帯開発の父です。

越中国氷見郡薮田村(現、富山県氷見市)の医師・浅野泰順の次男に生まれた總一郎は、加賀の大商人・銭屋五兵衛を目標として、医者ではなく商いの道に進みます。幕末から明治にかけての時期、總一郎は北陸の物産を扱って一度は成功しますが、事業拡大に失敗し、24歳にして300両もの借財をつくり、夜逃げ同然に東京に出ました。

それからの總一郎の人生は、「七転び八起き」ならぬ「九転十起」と表現されるものになります。元手のない總一郎は、お茶の水の名水に砂糖を入れただけという一杯一銭の「冷やっこい水」を売ることからスタート。竹の皮商から薪炭商へと進み、やがてコークスやコールタールなどの廃物に着目、これをセメント製造の燃料にすることを発想してセメント工場に売り込み、成功します。

やがてセメントがこれからの建設資材の柱になると見抜き、明治17年(1884)に官営の深川セメントの払い下げを受けました。これが後の浅野セメント(現、太平洋セメント)の出発点となります。払い下げにあたっては、總一郎の手腕を見込んだ実業家の渋沢栄一の支援もありました。

明治29年(1896)、欧米視察に赴いた總一郎は、各国の港湾の発展ぶりに驚き、港湾開発と工場建設を一体化させた臨海工業地帯を日本にも作ろうと一念発起します。總一郎が選んだのは、東京から横浜にかけての海岸部でした。その壮大な構想に神奈川県が尻込みしますが、總一郎は独力で進める決意を固めます。

そんな總一郎に協力したのが、実業家の安田善次郎でした。安田は總一郎と同郷であり、渋沢栄一同様、總一郎の手腕と、正しいと信じたことを貫く總一郎の姿勢を理解したからであるといわれます。

海岸部の埋め立ては大正から昭和の初めにかけて15年間で完成し、總一郎は浅野造船所など多数の会社を設立して、京浜工業地帯を発展させました。さらに埋立地に鶴見臨港鉄道を敷設(現、鶴見線)、駅名の浅野駅は總一郎に、安善駅は安田善次郎にちなんでいます。また總一郎が創立した浅野学園(横浜市)の校訓は今も總一郎の座右の銘、「九転十起」です。

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