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奉天会戦の勝利~乃木率いる第三軍、秋山騎兵旅団の奮戦

2018年03月10日 公開

歴史街道編集部

乃木希典
第三軍を率いた乃木希典
 

奉天会戦で日本軍がロシア軍に勝利

今日は何の日 明治38年(1905)3月10日

明治38年(1905)3月10日、奉天会戦で日本軍がロシア軍に勝利しました。今回は乃木希典の第三軍に注目しながらご紹介しましょう。

日露戦争における奉天会戦は、日本軍25万、ロシア軍31万が動員され、当時、世界史上においても未曾有の規模の大会戦でした。そしてこの戦いで日本軍の鍵を握る役割を担ったのが、乃木希典率いる第三軍です。

1月1日、第三軍は言語を絶する苦闘の末に旅順要塞を攻略。「旅順ではいたずらに死傷者を増やした」として特に戦後、愚将のレッテルを貼られた乃木ですが、4ヵ月余りの短期間での永久要塞攻略は、むしろ世界を瞠目させるものでした。また旅順要塞攻略(正確にはその1ヵ月前の203高地攻略)によって、旅順ロシア艦隊の壊滅を確認することができ、東郷平八郎率いる連合艦隊は後顧の憂いなく、バルチック艦隊迎撃に専念できることになりました。

この点、乃木の旅順攻略が日露戦争全体に与えた影響の大きさがわかります。東郷は自ら旅順の乃木のもとに赴き、感謝の念を伝えました。しかし、各国の観戦武官を驚かせたのは、旅順を攻略した乃木第三軍が休みもとらず、300北方km北方の奉天目指して進軍を始めたことでした。もちろん、奉天会戦に参加するためです。あの巨大な28サンチ砲を牽引しながらの行軍でした。 

1月26日、第三軍司令部は遼陽に到着。2月20日、満洲軍総司令部は各軍司令官を集め、作戦方針を告げます。あらましは最右翼の鴨緑江(おうりょくこう)軍から、第一軍、第二軍、第四軍と並び、最左翼に第三軍が布陣します。 そしてまず、最右翼の鴨緑江軍がロシア軍最左翼を攻撃して、敵の目を引き付けます。その間に最左翼の乃木第三軍が敵右翼を迂回して敵側背を衝き、これに連動して第一軍、第四軍、第二軍も敵の左翼から正面を攻撃するというものでした。この作戦の成否はもちろん、乃木第三軍の動きにかかっています。もし第三軍の攻撃が不十分であれば、他の軍は数で勝る敵に正面攻撃をかけるだけになり、勝利は覚束なくなるのです。

それにしても旅順の苦闘を経て、さらに長距離を行軍した第三軍に、なぜ最も運動量の多い役回りが命ぜられたのでしょうか。これは第三軍が直前まで、満洲軍本隊に参加していなかったためでした。というのも第三軍が旅順で戦っていた頃、満洲軍本隊は遼陽や黒溝台でロシア軍と激闘を演じており、すでに各軍は堅固な陣地を構築してロシア軍と対峙していたのです。決戦直前になって、新規の軍と陣地を入れ替えることは得策ではなく、必然的に乃木第三軍が、陣地に拠らずに前進する役割を担うことになりました。

しかし、最左翼から奉天まで約60km。その間にロシア軍はいくつもの陣地を構築しており、第三軍はそれらを突破して側背を衝かなくてはなりません。 また、第三軍からは最精鋭の第十一師団が鴨緑江軍の増強のために引き抜かれました。このことが思わぬ影響を生むのですが、第三軍としては満身創痍の上、さらに戦力ダウンを余儀なくされます。

2月21日、鴨緑江軍が進軍を開始。敵左翼に打撃を与えます。この時、鴨緑江軍に第三軍にいた第十一師団が加わっていたことから、ロシア側は鴨緑江軍を乃木第三軍と誤認しました。ロシア軍総司令官のクロパトキンは、旅順を攻略した第三軍を最精鋭部隊と見て畏怖しており、急遽、鴨緑江軍に向けて戦力を移動させます。これは日本軍にすれば、好都合の誤認でした。27日、乃木第三軍は進軍を開始。他の軍の前進が難航する中、第三軍のみは3月2日まで快進撃を続けます。またこの日、秋山好古の騎兵旅団(秋山支隊)が麾下に加わったことも、明るい材料でした。

しかしクロパトキンも、迂回している敵軍こそ乃木第三軍であることに気づき、今度は反対方向にロシア軍戦力を移動させます。 快進撃を続ける第三軍が孤立することを恐れた総司令部は、2日に前進停止を命じますが、3日早朝、乃木は「この機を逃すと前進は困難になる」と判断、秋山支隊の機関銃も効力を発揮して、敵を撃退しつつ北上を続けました。

この戦況に総司令部は、第三軍に対して奉天市街の西へ迂回することを指示しますが、それでは時間がかかり過ぎ、浮き足立ち始めた敵軍を逃がしてしまいかねません。乃木はまたも独断で、奉天直進を決断します。奉天に直進すれば、退却を始める敵軍と正面衝突する公算が高いですが、それをやり遂げなければ勝利は導けないという判断でした。

7日未明、奉天付近に迫った第三軍は鉄道の確保と敵の退路を断つべく前進。秋山支隊もさらに北方で鉄道を遮断すべく前進します。しかしこれに死に物狂いの反撃を加えたのがクロパトキンでした。退路を断たれることを怖れて、味方を撤退させつつ主力を第三軍に振り向けたのです。

敵の後退に伴い、8日、総司令部は第四軍、第一軍、鴨緑江軍に追撃を命じます。一方、敵主力と戦いつつ、なおも敵の退路を断とうとする第三軍は死闘が続きました。そして9日、クロパトキンは全軍に鉄嶺への撤退を命じ、第三軍は鉄道を遮断すべく攻撃を続けます。

しかし10日、第三軍は砲弾を撃ち尽くし、補給もないまま、敵将兵が軍用列車で続々と退却するのを眺めるしかありませんでした。ほどなく第二軍が奉天に入城、夕方に第四軍が奉天北方の鉄道と道路を遮断、敵1300人を投降させ、第一軍は追撃を続けて鉄嶺を占領、ロシア軍はさらに北方の四平街へと逃れました。

ここに3月10日、奉天会戦は日本軍勝利のかたちで終結。日本軍の死傷者は約7万(うち戦死者は約1万5000)。ロシア軍の死傷者は約6万(うち戦死者約9000、行方不明者約8000)、捕虜2万8000でした。 客観的に見て、奉天においても乃木の第三軍は見事な奮戦ぶりであり、この奮戦があって奉天の勝利がもたらされたといっても過言ではありません。

しかし、凱旋帰国する乃木は、ひたすら多くの部下を死なせたことへの自責の念にかられていました。この戦いぶり、この責任感、乃木を愚将などとはとても呼べないと感じるのですが、いかがでしょうか。



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