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武田勝頼の生涯~日本にかくれなき弓取り

2018年03月10日 公開

歴史街道編集部

武田勝頼
 

武田勝頼が自刃

今日は何の日 天正10年3月11日

天正10年3月11日(1582年4月3日)、武田四郎勝頼が自刃しました。戦国最強を謳われた武田氏の滅亡の時です。
 

諏訪四郎勝頼の誕生

勝頼は天文15年(1546)、武田信玄の4男に生まれました。母親は諏訪頼重の娘・諏訪御料人。信玄はその4年前、諏訪へ攻め込んで、頼重を謀殺しています。このため甲斐の人々は、勝頼の誕生で武田は諏訪に復讐されるのではと不吉がったといわれます。しかし信玄は、勝頼によって武田を恨む諏訪衆を懐柔できると考えました。勝頼を諏訪氏の跡目に据えれば、諏訪・伊奈の衆は従うだろう、と。

永禄5年(1562)、17歳の勝頼は外祖父頼重の跡目を継ぎ、諏訪四郎勝頼と名乗ります。信玄は勝頼を、伊奈郡代・高遠城主に任じました。勝頼が伊奈を与えられたことに、信玄の嫡男・義信は不満を抱きます。そもそも信玄と義信は、永禄4年(1561)の第四次川中島合戦の陣中で不和になりました。信玄が戦場で、義信の危急を救わなかったためといいますが、義信が攻略した伊奈を信玄が弟に与えたことで、その溝はより深まりました。

永禄10年(1567)、信玄は反抗する息子・義信に自害を命じました。義信、享年30。当時、家中が信玄派と義信派に割れていたため、信玄は義信の死で家中を一つにまとめる必要がありました。さらに信玄は、可愛がっている勝頼を実質的な後継者とするのです。そんな勝頼には、義信自刃の翌月、嫡男が生まれています。信勝でした。信玄は、勝頼に嫡子が生まれたら、その子を武田宗家の主にするという取り決めをしていたといわれ、孫の信勝の誕生を大変喜びました。元亀2年(1571)、26歳の勝頼は政務見習いのため、高遠から甲府に移ります。すでに病に冒されていた信玄は、一度は諏訪の名跡を継いだ勝頼に、武田宗家を継ぐにふさわしい任官と徧諱を将軍足利義昭に請いますが、織田信長が義昭の裁量を奪っており、それは叶いませんでした。
 

武田信玄の死と長篠の戦い

翌元亀3年(1572)、信玄は上洛の軍を起こし破竹の勢いで進撃、三方ヶ原の戦いでは徳川家康軍を粉砕します。この戦いで勝頼の隊は63もの首をあげました。 高坂昌信は勝頼について「常に短気なることもなく、いささかも喧狂におわしまさず、いかにも静かに奥深く見え奉る」と肯定的に記しています。しかし翌元亀4年(1573)、信玄は西上の途中で陣没。軍勢は甲府に戻り、信玄の喪は秘され、信玄の隠居により勝頼が家督を相続するかたちをとります。

しかしこの不自然な、仮の当主という立場は、ただでさえ勝頼を諏訪の者とみなす家臣たちの統率を難しくしました。 武田軍が上洛戦をやめたことで、絶体絶命であった織田・徳川は息を吹き返し、さまざまに調略の手を伸ばします。 この事態に勝頼は、反撃に出ることを決断。天正2年(1574)には東美濃の明知城を攻略、さらに信玄でさえも落とせなかった遠江の要衝・高天神城を落として、東遠江を平定しました。

高天神城の陥落は、徳川家康に強い危機感を抱かせます。そして翌天正3年(1575)、奥三河の長篠城を囲んだ勝頼に対し、家康は織田信長の大軍とともに勝頼に挑みました。史上有名な長篠の合戦です。この合戦については、信長の鉄砲の3段撃ちはなく、武田の騎馬隊も無謀な突撃を繰り返したわけではなかったことが最近、指摘されています。戦いは8時間にも及び、武田軍の損害の大半は、追撃する敵を食い止める際に生じたものでした。 しかし山県昌景、馬場信春、内藤昌豊ら優れた武将を多数失ったことは、武田家にとって痛恨事であり、一大転機となりました。すなわちそれまでの攻勢を以後とることができなくなり、常に守勢に回ることになるのです。
 

御館の乱で致命的な判断ミス?

天正5年(1577)、勝頼は北条氏政の妹を後室に迎えて北条との結びつきを強め、一方で越後の上杉との関係修復も視野に入れました。翌年、上杉謙信が急死すると、越後では二人の養子・景勝と景虎の間で家督争いが起こります(御館の乱)。 そこで勝頼は、両者の和睦調停に乗り出しました。当初は北条氏との関係から、北条氏政の実弟である景虎を支持しましたが、景勝側が莫大な金の贈与と上野領の割譲という破格の条件を提示してきたことで、勝頼は景勝支持に転じることになります。

しかし、これは致命的な選択ミスだったのかもしれません。 上杉家の内紛は結局、景虎の自刃で幕を閉じ、これによって北条氏は武田と手を切り、徳川と結ぶことになるのです。勝頼は上杉と結ぶ代わりに、織田・徳川・北条を敵に回すことになりました。 そしてこれを好機とした徳川家康は天正9年(1581)、高天神城奪回に乗り出します。徳川の猛攻を前に、勝頼には援軍を送る余力も失われており、高天神の城兵はほとんど全滅状態で落城しました。このことで武田の威信は地に堕ち、勝頼のもとから離反者が続出します。

そして天正10年(1582)2月。木曾義昌が織田方に寝返り、怒った勝頼が討伐軍を送ったところで、織田、徳川、北条の軍勢が一斉に武田領に攻め込みました。これによって武田の家臣団は崩壊、もはや組織的抵抗を行なうこともできません。 ほとんどの城が降伏する中、織田の大軍に頑強に抵抗したのは、勝頼の弟・仁科盛信が守る高遠城のみでした。
 

武田勝頼の最期

勝頼は韮崎の新府城での籠城を諦め、小山田信茂の岩殿城を目指します。しかし小山田が織田に降伏したため行き場を失い、天目山棲雲寺を目指す途中、田野で織田方が迫り、嫡男信勝や正室(北条氏政の妹)らとともに自刃しました。享年37。

武田家滅亡は、信玄の死から10年後のことです。ただでさえ統率の難しい甲斐の武将たちを、カリスマ的存在の信玄亡き後に不明確な立場で束ねることは、極めて困難であったでしょう。 信長は勝頼を「日本にかくれなき弓取り」と評しています。勝頼が凡庸な武将ではなかったことは確かであり、たとえば当主・義信のもとで、最前線を担う部将として勝頼を活躍させていれば、武田のその後もまた変わっていたのかもしれません。


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