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大石順教の生涯~口筆の書画、身障者の母

2018年04月21日 公開
2019年03月27日 更新

4月21日 This Day in History

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昭和43年4月21日、大石順教が入寂

昭和43年(1968)4月21日、大石順教が入寂しました。口筆の書画で知られ、身障者の母とも呼ばれた女性です。

大石順教は明治21年、大阪道頓堀で寿司店の次女に生まれました。本名は大石よね。生後間もなく養子に出され、幼少の頃より京舞の山村流を学びます。明治32年(1899)、11歳で名取となりました。明治34年(1901)、13歳の時に大阪堀江のお茶屋「山梅楼」で芸妓を目指し、同楼の中川万次郎の養女となりました。芸名は妻吉と名乗り、芸に精進します。

ところが明治38年(1905)、凄惨な事件が起こりました。養父の万次郎は、内縁の妻が男(自分の甥)と駆け落ちしたことで酒に溺れ、ある夜、半狂乱となって楼内で日本刀を振るい、逃げた妻の母親、弟、妹を襲います。養女にしていた2人の芸妓も巻き添えとなって、5人が斬殺されました。この時、17歳の順教も巻き込まれ、両腕を切断され、顔面も切られたのです。「堀江6人斬り事件」として日本中に衝撃を与えた大事件でした。そして、被害者の中で順教のみが、辛うじて命を取り留めたのです。

芸妓への道を17歳で断たれた順教は、その後、話題の事件の被害者として、桂文団治一座に加わり、自分の姿を見せるとともに、長唄などを歌って地方巡業で生計を立て、親を養いました。そんな巡業を3年も続けたある日のこと。順教は籠の中のカナリアが、くちばしで雛に餌を運んでいるのを見て、ハッと気づきます。

「鳥は手がなくても、一所懸命に生きている。自分はどうか」

それから順教は、筆を口にくわえて文字を書くことができるように、励んでいきました。やがて芸能界から身を引いた順教は古典などを学び、明治45年(1912)に日本画家の山口艸平と結婚。2児に恵まれます。しかし夫の不倫により昭和2年(1927)に離婚し、順教は2人の子供を連れて東京に出ると、渋谷で帯地に更紗絵を描いて生計を立てました。

昭和6年(1931)、大阪の高安に庵を建てて尼僧を志し、堀江事件の犠牲者を弔うとともに、女性のための収容施設を開いて、教育に取り組むようになります。2年後、高野山金剛峰寺で得度し、名を順教と改めました。昭和11年(1936)、順教は京都の勧修寺に移住し、身障者の相談所「自在会」を設立、女性を収容し、自分と同じ立場である身障者の自立のための教育を行なっていきます。

やがて、そんな順教の口筆が認められ、昭和30年(1955)、口を使って書いた般若心経が日展の書道部に入選しました。また身障者のために全国で活動し、昭和33年(1958)には日本人で初めて、世界身体障害者芸術協会の会員に選ばれます。

そんな大石順教はこんなことばを残しています。

「悲しいことがあったら、笑いなさい。つらいことがあったら、笑顔を人に差し上げなさい。それによってしか、私たちの笑顔はつくれないんだ」

「しないことと、できないことは違う」

「何事も成せばなるてふ言の葉を胸にきざみて 生きて来し我れ」

身障者の母として多くの人々から慕われた順教は、昭和43年(1968)に他界します。享年80。亡くなる直前まで、身障者の社会復帰のために尽くした生涯でした。

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