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毛利元就~「三本の矢」で結束を説いた中国地方の覇者

2018年06月14日 公開

歴史街道編集部

毛利氏
 

今日は何の日
元亀2年6月14日、毛利元就が没

元亀2年6月14日(1571年7月6日)、安芸国吉田郡山城において毛利元就が没しました。中国地方を制覇し、戦国一の知将とも呼ばれます。

毛利元就が生まれたのは明応6年3月14日(1497年4月16日)。明応6年といえば斎藤道三(異説あり)や武田信玄の父・信虎の3歳下、太源雪斎の1歳下で、元就は彼らと同世代になります。元就(幼名・松寿丸)は、吉田郡山城の毛利弘元の次男に生まれました。毛利家は周防・長門の守護大名大内氏に従う国人領主です。

3年後、家督を嫡男・興元に譲った父とともに猿掛城に移りますが、元就10歳の時に父が死ぬと、城は家臣に横領されて元就は城から追われてしまいます。その後、当主・興元が急死し、家督は興元の子・幸松丸が継ぎますが、幼いため元就が後見することになりました。

その毛利家中の混乱を衝いて、勇猛で鳴る安芸武田氏の当主・武田元繁が有田城に攻め込みます。しかし初陣の元就は巧みな用兵で武田軍を破り、元繁を討ち取りました。この有田中井手の戦いの勝利で、元就の武名は近隣に響き渡ります。さらに大内氏から出雲の尼子氏傘下へ鞍替えして武功を重ね、幸松丸が幼くして没すると、家臣に推された元就が毛利家を継ぎました。

その後、再び大内氏の傘下に戻ると、近隣諸豪を討ち、あるいは友好関係を結んで勢力を拡大。天文2年(1534)には大内義隆を通じて朝廷に献上金を贈り、従五位下右馬頭に任じられています。

天文9年(1540)、尼子詮久(後の晴久)が元就の居城・吉田郡山城に3万の軍勢で攻め寄せると、元就は3000で迎え撃ち、援軍の大内軍・陶隆房(後の晴賢)の協力も得て、撃退に成功、44歳にして安芸国随一の武将と認められるようになりました。

しかし翌々年、大内義隆を総大将とする尼子氏本拠・月山富田城攻めに従軍させられ、大内軍は敗北、元就もあわや討死という目に遭います。この苦い経験から元就は、大勢力の傘下からの独立を考えます。

手始めに竹原小早川氏の養子に三男・隆景を入れ、また妻の実家・吉川家に次男・元春を入れることに成功、両家の勢力を取り込んで安芸・石見・備後、さらに小早川水軍により瀬戸内海にまで影響力を持ち、「毛利両川体制」を築きました。

天文20年(1551)、大内家家臣・陶晴賢が謀叛で実権を奪うと、元就は陶氏と友好関係を結びます。しかし陶が元就を危険視し始めると、元就は謀略をもって陶の右腕・江良房栄を暗殺させ、さらに弘治元年(1555)、2万の軍勢で厳島に攻め寄せる陶軍を奇襲で破り、晴賢を討死させました。「日本三大奇襲戦」といわれる厳島の戦いです。

2年後の弘治3年には大内氏を滅ぼし、九州以外の大内の版図も手に入れました。同年、家督を嫡男・隆元に譲りますが、実権は元就が掌握し続けます。そして永禄9年(1566)、月山富田城の尼子義久を降し、ついに中国8カ国を領するに至るのです。時に元就、70歳でした。

ところで、元就といえば「三本の矢」のエピソードは欠かせません。

「この矢、一本なれば、最も折りやすし。しかれども一つに束ぬれば、折り難し。汝ら、これに鑑みて、一和同心すべし。必ずそむくなかれ」

長男隆元は早世しますが、その子輝元を元春、隆景の両川が守り立て、一族が結束することを説きました。家の乱れが滅亡につながる例を嫌というほど目にしてきた、歴戦の元就ならではの言葉なのでしょう。

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