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樋口一葉はなぜ、小説家の道を志したのか~困窮から「奇跡の14ヶ月」へ

2018年03月25日 公開
2019年02月27日 更新

3月25日 This Day in History

樋口一葉
 

今日は何の日 明治5年3月25日
女性作家・樋口一葉が生まれる

明治5年3月25日(1872年5月2日)、樋口一葉が生まれました。女性作家で、五千円紙幣の肖像でもおなじみです。 

一葉の本名は奈津(夏子)。父・為之助(則義)、母・多喜は甲斐国の農民でしたが、駆け落ち同然で江戸に出て、為之助は慶応3年(1867)に同心株を買って幕臣となります。維新後は下級官吏となりますが、明治9年に免職された後、事業に失敗。窮乏生活の中で一葉は育ちました。幼い頃から読書を好んだ一葉は小学校では首席でしたが、進学せずに11歳で中退。女に学問は不要という、母親の意向であったといわれます。

幼い一葉は学校を辞めることについて、「死ぬばかり、悲しかりし」と日記に書きました。父親の為之助も学問好きであったため娘を不憫に思い、明治19年(1886)に14歳の一葉を中島歌子の歌塾に入門させます。ここで一葉は和歌や書、古典を学びますが、翌年兄が、そして一葉17歳の時に父が他界し、家計は戸主の一葉の肩にのしかかりました。

明治23年(1890)、本郷菊坂(文京区)に転居すると、母と妹と三人で針仕事や洗い張りで生計を立てる苦しい生活を続けました。19歳の時、中島塾の姉弟子が小説を刊行して大金を得たことを聞き、一葉は自分も小説を書こうと思い立ちます。そして師事したのが、東京朝日新聞の小説記者・半井桃水(なからい・とうすい)でした。

半井より小説作法を学び、半井主宰の雑誌「武蔵野」に投稿したのが、一葉の処女作「闇桜」です。やがて一葉は12歳年上の半井に慕情を抱くようになりますが、中島歌子の忠告もあり、泣く泣く半井の許を去りました。

恋に苦しみ、執筆にも行き詰まった一葉は、吉原遊郭に近い下谷竜泉寺町に移り、雑貨屋を開きます。しかし商売はうまくいかず生活に困窮、当時(21歳)の日記には、よき死に処を求める記述があります。

翌年、店をたたみ、さらに安い家賃を求めて転居したのは、酌婦街(私娼窟)でした。世間から蔑まれる場所で一葉は、貴重な体験をします。一葉の字が美しいことを知った酌婦たちが、手紙の代筆を次々に頼んできたのです。代筆しながら一葉は、どん底を必死に生きる彼女たちの心が汚れておらず、誠があることを知りました。

時に逃げてきた酌婦を追っ手から匿うこともあった一葉は、こう記します。

「救いたまえとすがられしも縁なり。東(あずま)女はどんなものか、狭けれどもこの袖の陰に隠れて、とかくの時節をお待ちなされ」

こうした体験が、一葉に再び筆を取らせます。

「人間の真実、蔑まれながらも失われていない心の美しさ」…。その年、明治27年(1894)12月に「大つごもり」を『文学界』に、翌年1月から「たけくらべ」を7回にわたり発表、さらに「行く雲」「にごりえ」「十三夜」などを次々と送り出したのは、文学史上「奇跡の14ヶ月」と呼ばれます。

作品は森鴎外や幸田露伴から絶賛され、一葉の名は明治の文壇の頂点を極めました。しかし、彼女の体は長年の過労から労咳(結核)に蝕まれており、明治29年(1896)、24歳の若さで世を去りました。

ちなみに「一葉」という筆名は、困窮から「お足が無い」と、葦の葉の舟に乗って中国に渡り、手足を失った達磨から取ったとか。まるで14ヶ月のためにそれまでの苦労があったかのような一葉の人生に接すると、人それぞれ生まれながらに背負っている役割があるような気がしてきます。

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