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柳生宗矩の名言

2018年04月12日 公開

歴史街道編集部


 

柳生宗矩。徳川家康に仕え、徳川秀忠、家光の兵法指南役、幕府の惣目付を務めた人物です。

元亀2年(1571)、剣聖・上泉伊勢守信綱より新陰流の奥義を授けられた柳生石舟斎宗厳の5男に生まれ、新陰流を会得。通称・又右衛門。文禄3年(1594)、徳川家康の求めで「無刀取り」の極意を披露した宗厳に対し、家康は仕官して指南役となることを求めますが、宗厳は老齢を理由に断り、代わりに推挙したのが24歳の息子・宗矩でした。

関ケ原合戦における後方牽制の功が認められ、翌慶長6年(1601)に家康の息子・秀忠の兵法指南役となります。慶長20年(1615)の大坂夏の陣で、46歳の宗矩は将軍秀忠の側に詰め、秀忠本陣を襲った大坂方の武者7人余りを、瞬く間に斬り捨てた記録が残ります。

その後、秀忠の息子・家光の兵法指南役を務め、3代将軍に就任した家光からも篤く信頼され、春日局、松平伊豆守信綱と並んで、家光を支える鼎の足の一つと称されるようになりました。

寛永6年(1629)、59歳で従五位下但馬守に任官。3年後には初代の幕府惣目付(後の大目付)に任じられ、老中や諸大名の監視役を務めます。寛永13年(1636)には加増を受けて、所領が1万石を越えて大名に列せられ、大和国柳生藩の藩主となりました。

小説や時代劇では、息子の十兵衛を隠密として諸国を探索させ、幕府に叛意のある者を未然に消していったとも、また新陰流正統である尾張柳生家(宗矩の長兄の子で、尾張徳川家に仕えた柳生兵庫助利厳)との確執なども描かれますが、いずれも創作の域を出ないようです。

実際の宗矩は沢庵和尚と親しく接して禅への造詣が深く、また能を舞うことを好み、それらの思想を織り込んで、『兵法家伝書』を著わしています。

宗矩の言葉として、次のようなものが伝わります。

「兵法は人を斬るとばかり思うは、僻事(ひがごと)なり。人を斬るにはあらず、悪を殺すなり」

「刀二つにて使う兵法は、負くるも一人、勝つも一人のみなり。これはいと小さき兵法なり。勝負ともに、その得失わずかなり。一人勝ちて天下かち、一人負けて天下まく、これ大なる兵法なり」

「無刀とて、必ずしも人の刀をとらずして敵わぬという儀にあらず。また刀を取りて見せて、これを名誉にせんにてもなし。わが刀なき時、人に斬られじとの無刀なり」

「人を殺す刀、かえってすなわち人を活かす剣なりとは、それ乱れたる世には、ゆえなき者多く死するなり。乱れたる世を治める為に、殺人刀を用いて、己に治まる時は、殺人刀すなわち活人剣ならずや」

「平常心をもって、一切のことをなす人。これを名人と言うなり」

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