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黒田八虎・大坂城五人衆 後藤又兵衛基次の壮絶人生

2018年05月05日 公開

歴史街道編集部

後藤又兵衛没
 

今日は何の日 慶長20年5月6日
後藤又兵衛が大坂夏の陣・道明寺の戦いで討死

慶長20年5月6日(1615年6月2日)、後藤又兵衛基次が大坂夏の陣・道明寺の戦いで討死にしました。黒田二十四騎、黒田八虎の一人で、大坂の陣では大坂城五人衆の一人に数えられました。

後藤又兵衛は一説に姫路近くの神東郡山田村で、小寺政職の配下・後藤新左衛門基国の次男に生まれたといいます。しかし、基国は叔父ともいわれ、幼い又兵衛は黒田官兵衛の許で育ったともいわれます。

基国は別所氏に従っていましたが、三木城攻防戦の最中に黒田家に降り、その後、黒田官兵衛が有岡城に幽閉された際に再び背いたため、又兵衛もやむなく黒田家を退去しました。

その後、又兵衛は讃岐の仙石秀久に仕え、九州征伐に出陣。しかし戸次川の戦いで仙石が惨敗し、讃岐に逃げ帰る醜態を演じたため、又兵衛は黒田家に帰参し、重臣・栗山利安の与力となります。

それからの又兵衛の活躍は目覚しく、豊前城井氏との戦いや朝鮮出兵で力量を発揮します。城井氏との緒戦で黒田方が敗れ、官兵衛の息子・長政が頭を丸めて父に詫びると、又兵衛は「戦に勝敗はつきもの。負ける度に頭を丸めては毛の生えそろう暇もござらぬ。次で勝てばよいと存ずる」と言って、官兵衛をうなずかせました。

また朝鮮の陣では母里友信、黒田一成と又兵衛が日替わりで先鋒を務め(いずれも黒田八虎)、また第二次晋州城攻略戦では、亀甲車を作って城壁を崩し、加藤清正配下の森本一久らと先陣を争いました。さらに主君の長政が川の中で敵と組討ちになった際、又兵衛は「これしきの敵に討たれる殿ではない」と手助けせず、そうした又兵衛の言動を、長政は嫌うようになったといいます。

関ケ原前日には合渡川で西軍と対峙する中、藤堂高虎が陪臣の又兵衛に助言を求め、長政が嫌味を言ったという話も残ります。しかし本戦では、又兵衛は石田三成の家臣で剛の者・大橋掃部を討ち取り、戦後、筑前最大の要衝・大隈城1万6000石を任されました。

官兵衛が死去した2年後の慶長11年(1606)、又兵衛は突如、黒田家を退去します。一説に、又兵衛の四男が小鼓の名手であることから、主君・長政が能楽師の伴奏を命じ、これに「武士の務めにあらず」と又兵衛が激怒したためであるといわれます。

又兵衛は長政と不仲の小倉の細川忠興を頼りますが、徳川家康の仲裁で細川家も退去せざるを得ず、福島正則や池田忠継にも接触するものの、長政が「奉公構」の通達を諸大名に回したため、京都で牢人暮らしとなります。しかし又兵衛は誰に対しても、旧主を悪くは語りませんでした。

慶長19年(1614)、徳川幕府と豊臣家の手切れが近づく中、黒田家では又兵衛を大坂城に入れまいと、息子を拉致しようとします。これに怒ったのが豊臣秀頼で、「大坂に暮らす者はたとえ牢人でも我が民である」と抗議し、黒田家は諦めました。又兵衛は深くこれに感じ入り、自ら大坂城に入城します。

そして冬の陣では6000の兵を指揮して遊軍として活躍、佐竹勢を壊滅寸前に追い詰めます。夏の陣では道明寺の戦いで数倍の東軍先鋒に痛撃を与えた末、討死しました。

黒田長政は「又兵衛は2、3000の兵であれば自分の手足の如く使う。大坂の将兵の中で、又兵衛に勝る者はいるまい」と語ったといいます。反目しながらも、どこかで認め合っていた君臣であったようです。


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