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織田信雄~不肖の息子と呼ばれながらも、戦国を生き抜いた男

2018年04月29日 公開
2022年07月28日 更新

4月30日 This Day in History


 

今日は何の日
寛永7年4月30日、信長の次男・織田信雄が没

信長の次男。幼名は茶筅。生母は生駒吉乃

寛永7年4月30日(1630年6月10日)、織田信雄が没しました。織田信長の次男で、北畠氏の養子に入り、信長の死後、小牧・長久手の戦いを起こしたことでも知られます。

織田信雄は永禄元年(1558)、織田信長の次男として尾張に生まれました。生母は生駒吉乃で、長男・信忠の同母弟になります。 同年生まれの弟・信孝は三男とされましたが、実際に生まれたのは信孝の方が早かったという説もあります。 信雄の幼名は茶筅(ちゃせん)。通称、三介。諱は具豊、信意(のぶおき)、信勝を経て、信雄となりました。晩年には入道して常真と称します。

永禄12年(1569)、信長が北畠氏の伊勢大河内城を攻め、和睦が成立すると、12歳の信雄は北畠家の養嗣子として大河内城に入り、元亀2年(1571)、北畠具教の娘を娶りました。元亀3年(1572)、15歳で元服。1歳上の兄・信忠、同年の弟・信孝とともに、元服は岐阜で行なわれたともいわれます。

天正3年(1575)には北畠家の家督を譲られ、大河内城から田丸城に移りました。天正4年(1576)、信長の意を受けた信雄は、北畠一族の粛清を始めます。まず岳父・具教を三瀬城で殺害すると、その息子たちや一族を田丸城に誘い出して、ことごとく謀殺。前当主の北畠具房のみ命を助け、長島城に幽閉しました。これによって伊勢を掌握した信雄は翌天正5年(1577)、父・信長とともに雑賀攻めに出陣。 以後は信長に代わって信忠が戦いの総指揮を執るようになり、信雄は信忠を支え、伊勢と大和の一部の兵を擁する強力な軍団の主となります。

天正7年(1579)、信雄は信長に無断で伊賀に出兵し、大敗。信長より軽率な行動を叱責されました(第一次天正伊賀の乱)。翌年、居城の田丸城が家臣の放火で焼失したため、新たに松島城を築きます。そして天正9年(1581)、麾下の伊勢衆の他、滝川一益、丹羽長秀、大和の筒井順慶、さらに信長の旗本の支援を得て、総大将として再び伊賀に攻め込み、これを平定しました(第二次天正伊賀の乱)。翌天正10年(1582)の武田攻めには参加したものの、すでに兄・信忠によって片がつけられていたため、出番はなかったようです。
 

本能寺の変と清洲会議

そして6月2日、本能寺の変。その時、信雄は居城・松島城におり、変事を聞いて伊賀を抜けて近江土山に出ますが、伊賀に不穏な動きが出たため、軍を西進させられません。一説に、弟・信孝の四国攻めに信雄配下の伊勢衆も動員されていたため、信雄が単独で明智光秀と戦うだけの兵力がなかったともいわれます。また山崎合戦の直後に、安土城天主が焼失したのは信雄の仕業ともいわれますが、信雄には動機がなく、このあたりも謎のままです。

同年の清洲会議では、羽柴秀吉は信長嫡孫の三法師を、柴田勝家は三男・信孝を後継者に推し、信雄の名前は挙がりませんでした。彼が家臣からどう見られていたか窺えます。会議の結果、織田家家督は三法師、その後見役を信孝が務めることになりました。信雄には尾張一国が加増され、およそ100万石の石高となり、本拠を清洲城に移します。しかし弟・信孝に対抗意識を抱く信雄とすれば、不満は残ったでしょう。

翌年、秀吉と勝家の間で賤ヶ岳の合戦が起こると、信雄は秀吉に与します。そして秀吉が岐阜城の信孝を降伏させると、三法師の身柄を預かり、信雄が後見役となって安土城に入りました。やがて勝家が敗死すると、信雄は信孝に切腹させます。実はその背後には秀吉の思惑がありました。兄弟の争いを利用して信雄に信孝を討たせる。信雄はこれで実質的な織田の当主になったと錯覚するが、実権はすべて秀吉が握っているという構図です。

そして賤ヶ岳合戦が完全に終結すると、秀吉は信雄を安土城から追い払いました。安土城で信雄に主君づらをされていては具合が悪いからでしょう。さすがに信雄も自分の役回りに気づき、秀吉と対抗すべく徳川家康に接近します。 そして天正12年(1584)、信雄・家康連合軍と秀吉軍が対峙する小牧・長久手の戦いが起こります。局地戦では家康が秀吉軍を破りますが、逆に信雄の領地は羽柴方に蹂躙され、信雄は家康に無断で単独講和を結んでしまいます。以後、信雄は秀吉に頭が上がらなくなりました。 
 

戦国の世を生き抜く

天正15年(1587)の九州征伐、天正18年(1590)の小田原征伐に信雄は秀吉に従って従軍。武功を上げます。 しかし家康の関東移封に伴い、家康旧領への移封を秀吉から命じられると難色を示し、これに怒った秀吉によって下野に流罪とされました。信雄は出家し、常真と称します。

その後、家康のとりなしで文禄の役の際に秀吉の御伽衆に加えられ、大和に1万7000石を与えられます。秀吉の死後、関ケ原の合戦の折は大坂にあり、家康から西軍に与したと見做されてまたも領地を失いました。その後は豊臣家に出仕し、慶長19年(1614)に大坂の陣が勃発すると、豊臣秀頼から大坂城に入ることを勧められますが、断って徳川方に転身しました。

豊臣家滅亡後、家康から大和宇陀、上野甘楽(かんら)、多胡、碓井に5万石を与えられています。寛永7年(1630)、京都北野で没。享年73。不肖の息子と陰口を叩かれながら、戦国を生き抜き、江戸時代に続いた大名家の織田氏は、血筋では信雄の系統のみでした。

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