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徳川家綱の逸話~文治政治で幕藩体制の安定をみた4代将軍

2018年05月08日 公開

歴史街道編集部

葵
 

今日は何の日 延宝8年5月8日
江戸幕府4代将軍・徳川家綱が没

延宝8年5月8日(1680年6月4日)、江戸幕府4代将軍・徳川家綱が没しました。逸話の多い父・3代将軍家光と、「犬公方」で知られる弟・5代将軍綱吉の間で、やや影のうすい印象の家綱ですが、どんな人物であったのでしょうか。

3代将軍家光は中年になるまで世継ぎをもうけず、家綱は寛永18年(1641)、家光38歳の時に生まれました。家光は家綱が生まれた時から世継ぎに定め、竹千代の名を与えています。弟と家督争いの末に、死なせなければならなかった自分の過去を思ってのことでしょう。

家綱がまだ幼い頃、遠島に処された罪人の食料はどうしているのかと家臣に尋ね、誰も答えられなかったところ、「命を助けて遠島に処しているのに、なぜ食料を与えないのか」と言い、それを聞いた家光が喜んで、「これを竹千代の仕置き始めとせよ」と命じて、以後は遠島の罪人に食料が送られるようになったといわれます。

慶安4年(1651)に家光が没すると、家綱は僅か11歳で将軍に就任しました。これを好機として同年、由井正雪や丸橋忠弥らによる幕府転覆未遂事件「慶安の変」が起こりますが、家綱を補佐する幕府閣僚たちの手腕で、事なきを得ました。

何しろ当時は家光の弟・保科正之をはじめ、大老・酒井忠勝、「知恵伊豆」こと松平信綱、阿部忠秋ら、家光政権を支えた「寛永の遺老」たちが健在であり、政権が揺らぐことはなかったのです。父親の遺産というべきでしょう。

ただし、由井正雪の事件の背後にある牢人問題を重く見た幕府は、以後、大名の取り潰しにつながる末期養子の禁止などをゆるめ、それまでの武断政治から文治政治へと舵を切ることになりました。

将軍就任間もない頃、江戸城天守に上った家綱に、側近が遠眼鏡を渡そうとすると、「もし余が天守から遠眼鏡で四方を見渡していると知ったら、江戸の民は嫌な思いをするだろう」と受け取らなかったといわれます。また将軍就任から6年後に明暦の大火が起こりますが、その復興資金援助、備蓄米の放出、諸大名の参勤交代の緩和などを行ないました。

寛文年間(1661~)に入ると、さしもの遺老たちも表舞台から去り、代わって大老・酒井忠清が幕政を取り仕切ることになります。この頃に幕府は殉死禁止令を出し、また伊達騒動や越後騒動など大名家の御家騒動もいくつか起こりました。家綱は、忠清らから上がってくる案件に「左様せい」と決裁したことから、「左様せい様」などと呼ばれたようで、このことから政治を家臣任せにしていたとも受け取られますが、むしろ幕閣の合議を経て将軍が決裁するスタイルが、この頃に整ったと見ることもできるようです。

家綱は体があまり強くなく、30代半ばになっても男子が生まれないまま、延宝8年(1680)に病に倒れました。そして末弟の館林藩主・綱吉を養子に迎えて将軍継嗣とし、ほどなく死去します。享年40。

自らリーダーシップをとる機会が少なく、また長命でなかったことも災いし、家綱の存在感を薄めてしまったようですが、むしろそれだけ幕府政治が安定していた時期であったともいえるでしょう。


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