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北里柴三郎の生涯~「日本の細菌学の父」と呼ばれるドンネル先生

2018年06月13日 公開

歴史街道編集部

北里柴三郎
 

今日は何の日
昭和6年6月13日、北里柴三郎が没

昭和6年(1931)6月13日、北里柴三郎が他界しました。「日本の細菌学の父」として知られ、「ドンネル先生」(ドイツ語で雷おやじ)と呼ばれて親しまれた人物です。

嘉永5年(1853)、肥後国阿蘇郡北里村の庄屋の家に生まれた柴三郎は、村一番の暴れん坊でしたが、藩校時習館から医者を目指して熊本医学校へと進み、明治8年(1875)、23歳で東京医学校(現・東京大学医学部)に入学。明治16年(1883)に卒業すると、適塾出身の長与専斎が局長であった内務省衛生局に奉職しました。医学校在学中、柴三郎は「医者の使命は病気を予防することにある」という確信を得たといいます。

2年後の明治18年(1885)、33歳でドイツ・ベルリン大学に留学。ローベルト・コッホに師事して、明治22年(1889)に破傷風菌純粋培養法に成功。翌年には破傷風菌抗毒素を発見し、前人未到の業績に世界が驚嘆しました。さらに血清療法という、血清中に抗体を生み出す画期的手法も開発、ジフテリア毒素と破傷風毒素に対する抗血清を生み出します。

これらの功績により、柴三郎は欧米各国の大学や研究機関から招きを受けますが、「留学の目的は日本の脆弱な医療体制の改善と、伝染病から国民を救うことにある」として招聘を固辞し、明治24年(1890)、38歳の時に帰国しました。

ところがドイツ留学中に母校・東大教授の脚気細菌説を批判したため、思うように活動ができなくなってしまいます。そこへ助け舟を出したのが長与専斎で、適塾時代の仲間・福澤諭吉に頼み、その支援で芝公園にわが国最初の私立伝染病研究所を創設、柴三郎は初代所長となりました。

研究所は明治32年(1898)、内務省に移管されて国立伝染病研究所(現・東大医科学研究所)となりますが、柴三郎は依然、所長として活躍。明治27年(1894)にはペストが蔓延していた香港に政府より派遣され、短期間でペスト菌を発見しています。

柴三郎はかねがね、伝染病の研究は衛生行政と表裏一体でなければならず、国立伝染病研究所は内務省所管であるべきという信念を持っていましたが、大正3年(1914)、柴三郎62歳の時、政府は突然、研究所を文部省に移管し、東大の下部組織にしました。その裏には柴三郎と東大の、長年にわたる確執があったといわれます。柴三郎はこれに烈火の如く怒り、素志に反するとして辞表を提出。これにならって北島多一をはじめとする他の所員も一斉に辞表を出しました。東大医学部長で北里らの去ったからっぽの研究所の所長となった青山胤道は、「北里は良い弟子を持った」と述懐したといいます。

その後、柴三郎は私費を投じて私立北里研究所(現・社団法人北里研究所、北里大学の前身)を設立。狂犬病、インフルエンザ、発疹チフス、赤痢などの血清開発に取り組みます。あの野口英世も一時期、研究所に属していました。また長年多大な援助をしてくれた故・福澤諭吉に報いるため、慶應義塾大学に医学部を創設し、医学部長や附属病院長を無給で務めました。

さらに柴三郎はそれまでばらばらであった医師会を統合した大日本医師会の初代会長、日本医師会の初代会長も務め、昭和6年に脳溢血で没しました。享年78。

柴三郎は自分には厳しく、筋の通らぬことは断固反対しますが、人の恩義は終生忘れず、福澤諭吉には感謝の念を抱き続け、またドイツ留学時代の恩師・コッホが来日した際には、涙を流して再会を喜び、滞在期間中、コッホを自ら諸方へ案内しています。

そして常々、研究所の所員に語っていたのは、「研究だけをしていては駄目だ。それをどう世の中に役立てるかを考えよ」でした。柴三郎が研究所の移管に怒って辞表を出した時、他の所員も全員が辞表を出したのも、柴三郎のそうした人柄を慕ってのことではないかと想像します。

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