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龍造寺隆信~討ち死に後、その首はなぜ受け取りを拒否されたのか

2018年08月31日 公開
2022年12月07日 更新

楠戸義昭(歴史作家)

龍造寺氏家紋
 

龍造寺隆信は沖田畷でいかに討たれたか

肥前の龍造寺隆信は「五州二島の太守」と称され、九州を大友氏、島津氏と三分する勢力にのし上がった。

だが慢心して独善的になり、周囲の意見を聞かず、島原の沖田畷に出撃し、島津・有馬連合軍に首を取られた。戦国大名で敵に首を取られたのは、織田信長に桶狭間で討たれた駿府の今川義元とこの隆信しかいない。しかもこの不名誉に強い憤りを感じたためか、島津が返還しようとした首の受け取りを龍造寺側は拒否した。それも驚いたことに、受け取りを拒否したのは、誰あろう実母の女丈夫・慶誾尼だったという。首は行き場を失って、龍造寺と島津の勢力の境目の寺にやむなく葬られた。

隆信は少年の頃から剛強で度胸抜群だった。だが素行が悪く、言葉も乱暴だった。

時に龍造寺本家は戦いや病気で男が絶えた。母慶誾は分家に嫁いだが本家の女だったことから、隆信が本家を継いだ。

自己中心主義で野心家の隆信は、自分より秀でた者を嫌った。また酒を好む者を好んだが、酔う者を嫌うといった風だった。

家督を継いですぐ、国内が不安定なのに、国外に打って出ようとして家臣に諫言されると、怒って席を蹴るなど、その素行の悪さから家臣の反乱に遭い、国を追われて2年も漂泊生活を強いられた。その後何とか隆信支持派の旧臣などの尽力で肥前佐嘉(佐賀市)に復帰できた。

これを見た母慶誾は隆信の欠点を補える参謀を探し、鍋島直茂に目をつけると、その父清房の押しかけ女房となり、隆信と直茂を兄弟の仲にした。この直茂の才覚で襲来した大友軍を小勢で撃退するなどし、隆信は五州二島の太守になれたのだった。

だが隆信の勢力拡大の手法は褒められたものではなかった。漂泊中に世話になり、帰還の戦いで兵まで貸してくれた柳川城の蒲池氏を、佐嘉での能興行に呼び出し、その当主・鎮漣を謀殺した。他にも謀略をもって相手を殺すなどしたため、 肥後や筑後の諸将は隆信を嫌い出し、息子政家の妻の実家である有馬晴信さえ、離反して島津氏に通じた。

激怒した隆信に腹心の直茂は「有馬は不仁ではありますが親類衆、五州に冠たる者の度量として、仁情を施されませ」と諭したが、隆信は有馬氏を許せぬと憤って島原に3万近い兵力で自ら出撃し、天正12年(1584)3月24日、島津・有馬連合軍8千が待ち受ける沖田畷で激突した。

沖田畷は島原半島の東岸、山と海に挟まれた狭い地域に、湿地と深田が南北に走っていた。島津・有馬軍はわずかな兵で敵を防げる絶好の場所として、大城戸(大きな門)をもって畷道(田の間のあぜ道)を塞ぎ、周囲に伏兵を忍ばせて龍造寺軍を待ち受けた。

隆信は鍋島直茂らに山手に回るように下知して、全軍の指揮を自らとった。主力軍を湿地・深田が広がる中央を真っ直ぐに貫く中道を大城戸に向かって進軍させ、もう一軍は浜手筋(海岸側)を進ませた。ところで有馬晴信はキリシタン大名である。宣教師が味方して武装した外国船が砲撃し、浜手筋の龍造寺軍の進撃を阻んだ。

中道を貝鉦を鳴らして士卒が進軍し、先頭が大城戸に達すると、柴垣の間から島津・有馬の兵が雨のごとく弓・鉄砲を放ち、大城戸を開いて龍造寺軍に襲いかかった。狭い畷道に、横に広がっての対戦は無理で、龍造寺の兵は次々に討たれた。しかも後続の兵は前が詰まって動けない。

『北肥戦誌(九州治乱記)』は、隆信は最前線の様子が分からないのに気をもみ、馬廻りの吉田清内に様子を見に行かせた。ところが先陣の軍士が臆して進まないため、隆信がさも命じたように「二陣、三陣、旗本まで、差支えて進まれず。命を惜しまず懸られよ。これは大将の下知なり」と叫んで廻った。これに先陣の軍士は大いに腹を立て、「よし、さらば死を一挙に定めよ」と、左右の湿地・深田に飛び込み前進しようとした。これを見た後続の兵も「われらも負けられない」と飛び込んだ。だがたちまち草摺・上帯・胸板まで見えなくなるほどズブズブに埋まって動けなくなる。そこを島津・有馬の兵に次々に討ち取られた。

大将の隆信は大肥満で馬に乗れず、6人の兵に山駕篭を担がせて指揮を執っていた。最後、山駕篭を降りて隆信は小高い所に登り、 床几に腰を掛けて不利な戦況を見守った。 軍上手な島津の伏兵が隆信の陣の背後に回り込む。隆信を守る四天王の成松遠江守、 百武志摩守らが隆信の目前で相次いで討ち死にしていく。まだ十代の小姓たちも皆討たれると、大音声を発して「吾こそが大将龍造寺隆信なるぞ」と叫んだ。島津軍の侍大将・河上左京亮がその声を聞きつけ、刀を身近に引き寄せて近づいた。

『肥陽軍記』は隆信が鎧の上に袈裟を掛けているのを見て、左京亮が「如何なるか、これ剣刃上の一句」と、太守に敬意を表して辞世を求めた。隆信は「紅炉上一点の雪」と応じると、即座に三拝して、静かに首を左京亮に取られた。

「紅炉上一点雪」とは、燃えさかる囲炉裏に置いた雪はたちまち解けるように、一点の私欲も疑念もないという意味。宋代の仏教書『碧巌録』に載る言葉である。

時に未の刻(午後2時頃)、隆信は56歳だった。龍造寺軍は大敗を喫し、討ち取られた首は3000余、切り捨てにされた首は数知れなかったという。

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