歴史街道 » 本誌関連記事 » 松田憲秀~小田原評定を主人の北条氏直とともに演出したナンバー2

松田憲秀~小田原評定を主人の北条氏直とともに演出したナンバー2

2018年11月06日 公開
2018年11月20日 更新

童門冬二(作家)

小田原評定と松田憲秀の意見

いくら平和的に交渉しても、これに応じようとしない北条氏の態度に、秀吉はついに決断した。

「北条氏を攻撃する」

と全大名に告げた。天正17年(1589)12月10日、秀吉は、自分の居宅であり、同時にまた職住一致で役所としても使っている聚楽第に、徳川家康、前田利家、上杉景勝らを呼んだ。そして作戦会議を開いて、次のような計画を立てた。

一、徳川軍は、東海道から箱根に向かう。
二、前田、上杉、真田らの軍勢は、東山道(中山道)から上野、武蔵に向かう。
三、九鬼、長宗(曾)我部、毛利、宇喜多らは水軍として、海上から駿河、相模湾へ向かう。
四、兵糧、武器、弾薬などの輸送は、長束正家が担当する。

動員される軍勢の総数は、約20万人といわれた。このとき、総司令部は京都の聚楽第に置かれていたから、指揮官や軍勢は、次々と京都を出発していった。

現在の鴨川にかかっている三条大橋は、このときにかけられたものである。つまり、軍勢や物資を運ぶために急遽つくられたのだ。しかし、秀吉が偉かったのは、

「この橋は、戦争が終わっても使えるように、丁寧にかけろ」

と命じていることだ。

豊臣秀吉は、スパイを放って、北条側の実態をこと細かくつかんでいた。北条側がどのくらいの軍勢を動員できるか、またその組織がどうなっているか、あるいは支城がどことどこにあるか、北条氏が支配している領地の地理はどうなっているか.さらに北条氏に仕えている部将たちの性格や、場合によっては豊臣軍側に寝返りするような可能性のある者は誰と誰かなど、実に詳しいデータを持っていた。そして、このオリジナルの情報書をつくり、その複写したものを全リーダーに配っていたのである。それも、

「リーダーが知るだけでなく、末端に至るまで情報としてよく伝えておけ」

と命じていた。

この点、攻撃前から北条側の実態が、かなりこと細かく豊臣側に知られていたといっていい。豊臣軍は、この情報書をテキストとして、各リーダーが作戦遂行の参考にしていたのである。

北条側でも、どう対応すべきかを、小田原城ですぐ会議を開いた。天正18年(1590)1月20日のことである。その10日前に、豊臣軍は動員を完了していた。小田原城に集まったのは、当主の北条氏直を中心に、後見役としての父の氏政、一門の北条氏照、氏邦、氏規、氏忠などがズラリと並んだ。これに一族の太田氏が脇に座る。そして、筆頭家老の松田憲秀などがズラリと控えた。

会議のチェアマンである氏直は、

「豊臣秀吉がこしゃくにも由緒あるこの北条家に攻撃を加えようとしていることは、皆も知っているはずだ。北条家には、豊臣軍のような寄せ集めの烏合の衆とは違って、先祖代々忠勤をはげんできてくれた武士がたくさんいる。その意味では、それぞれの自覚に任せて戦えばいいのだが、しかし、こんなことはいままでになかった。やはり非常事態である。そこで、それぞれが忌憚のない意見をいってもらいたい」

一門の中では、北条氏邦が主戦論者であった。彼は、

「小田原本城でいきなり籠城作戦を取るよりも、箱根を越えて討って出るべきです。その第一案は、富士川に防衛線を築くことです。第二案は西間に本営を置いて、黄瀬川に防衛線を築くことです。いずれの策を取るにしても、本営の指揮は老公氏政公にとっていただき、防衛線の指揮は、ご当主の氏直公にとっていただくのが最良と考えます」

といった。積極的な防衛作戦である。つまり籠城するのではなく、城を出て堂堂と東海道で豊臣軍と戦おうということだ。

これに対して、

「わたくしは、反対です」

と手をあげたのが松田憲秀であった。みんな変な顔をした。というのは、その座にいた者のほとんどが、北条氏邦の作戦を良策だと考えたからだ。どよめきが起こった。全員が半ばとがめるような視線を集中させるのに対して、松田憲秀はそれを平然と受けとめながら、こういった。

「箱根の山を敵が越えることはできないと思います。また敵は、攻撃軍を各地方に分散しています。まとまりがありません。同時に、いま氏直公が仰せられたように敵は烏合の衆で、忠誠心という点においては当北条家にかないません。また、戦線が各方面に長く伸びているので、やがては敵は兵糧や弾薬が欠乏いたします。それに対して当小田原城には、数年間籠城してもひとつも困らないほどの兵糧や弾薬があります。この際は、韮山と山中のふたつの城を前線として、各部将はそれぞれ自分の城を守る方法を取るべきだと思います」

のちに「北条家には人がいなかった」といわれるようになるが、この松田の案に対して、その座にいた人々は動揺した。つまり、はじめからぐらついていたのである。というのも、大将の北条氏直自身がぐらついていたのだ。この会議の前に、松田は氏直とふたりだけの秘密会議を持った。そして、

「天下の空気をよくご覧ください。日本は、すでに豊臣秀吉のものです。これに逆らうことはできません。その証拠に、あなたの岳父の徳川殿も、すでに小田原を見捨てて秀吉殿のもとに走ったではありませんか。しかも、今度は攻撃軍の先鋒に立っています。以前なら和を講ずべき時期があったかも知れませんが、いまさらそれをいってもはじまりません。このうえは城を守れるだけ守り、攻撃に手を焼いた豊臣軍が、和を申し出てくるのを待つべきです。そして、北条氏を高く売りつけ、有利な条件で講和するのが最も良い策だと思います。小田原城を捨てて、討って出るなどというのは下の下です」

そういうことを吹き込んでいた。氏直は、松田のいうことにも一理あると思っていた。彼もまた徳川家康からいろいろな情報を得ていたから、ここでがんばってみても、結局、豊臣秀吉は小田原城を落城させるであろうという嫌な予感を持っていた。それなら、確かに松田のいうように、がんばれるだけがんばって、チャンスを見て有利な条件で講和したほうがいいかも知れない、と考えていた。そういう考えが心の底にあるものだから、どうしても決断が下せないのである。

会議はずいぶん長びいたが、結局、まず後見人の北条氏政が松田を支持した。そこで氏直も、決断した。

「作戦は、籠城と決定する。韮山、山中の両城の守りを固め、各部将はそれぞれ自分の城に戻って応戦してくれ」

いっせいに「オォ!」という声はあがらなかった。受け取り方がマチマチだったからである。その意味では、すでに豊臣軍のほうがそういうことも含めて、北条一門が一枚岩になっていないということを見抜いていたのは、正しかった。

しかし、松田憲秀は、なぜ積極作戦に反対したのだろうか。このときの彼の態度から、

「松田はすでに秀吉から手を伸ばされ、北条氏を裏切っていた」

といわれる。

このへんの裏切り者への評価というのはむずかしい。裏切り者といって一蹴してしまうのはたやすいが、やはり大名家というのは、

「家の存続と、そこで働いている人たちの生活の安定」

ということを考えないわけにはいかない。いくらトップやトップの一族が悲壮な決意をして気勢をあげても、部下の全員がそれについていくかどうかわからない。まして、下層の人間ほど生活不安を持っている。無益な戦いをやめて、いままで通りの給与がもらえるなら、そのほうがいいと考える者もいる。

トップの北条氏直も、そのへんのことは十分心得ていた。松田がいう通りだろうと思った。

「たとえ局地戦で豊臣軍に勝ったとしても、敵は絶対にあきらめません。必ず、また来ます。そのときは、さらに大軍となって、こちら側はメチャメチャにやられるでしょう。制裁はひどくきびしいものになると思います」

このへんは、伊達政宗に対して伊達成実が、

「豊臣軍と戦うべきです」

といったのに、片倉景綱が、

「いや、ハエはうるさいものですぞ」

といったのと同じだ。つまり、片倉景綱にしろ、松田憲秀にしろ、このころはすでに豊臣秀吉の実力を知って、とうていかなわないということをわきまえていたのである。時代はすでに豊臣秀吉のものであった。それが、いわゆる時代の空気であり、また潮流なのだ。逆らっても、必ず流される。それよりも無益な戦いをやめて、家と従業員の生活の安定をはかったほうが、はるかに利口だと考えていたのだ。

この時代の目先のきくナンバー2は、みんなそう考えていた。したがって、同じ考えに立つ片倉景綱を名ナンバー2といい、松田憲秀を裏切り者だ、というのは当たらない。

その点は、北条氏直もトップとしてよく知っていた。その意味では、北条家の中でも北条氏直はふたつの性格を持っていた。つまり、北条一門という形式的なナンバー2群を抱える氏直と、松田という実質的なナンバー2を抱える氏直という、二面性を持っていたのである。

だから、このときの氏直は、ふたつに分裂している自分をどうひとつにまとめるかに苦慮したのだ。

次のページ
「妙策」と信じた裏切り >

歴史街道 購入

2024年5月号

歴史街道 2024年5月号

発売日:2024年04月06日
価格(税込):840円

関連記事

編集部のおすすめ

片倉景綱~ 「攻め」のトップ政宗を補佐し、危機を救った「守り」のナンバー2

童門冬ニ(作家)

宇佐美定満~主君・上杉謙信のために湖中に沈んだ伝説のナンバー2

童門冬ニ(作家)

本多正信と壁書十箇条~徳川幕府の基礎を築いた、家康の経営派ナンバー2

童門冬ニ(作家)
×