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本多正信と壁書十箇条~徳川幕府の基礎を築いた、家康の経営派ナンバー2

2018年10月24日 公開
2018年10月24日 更新

童門冬ニ(作家)

トボケの名手

本多正信がいかに謀臣であったかを示したのが、関ケ原の合戦前後の彼の行動だ。

豊臣秀吉は、慶長3年(1598)8月に死んだ。しかし、秀吉が死んでも、秀吉の遺志を受け止めている前田利家という強力なナンバー2がいて、徳川家康は同じナンバー2でも、利家がいる限り、ナンバー1にのし上がることは不可能だった。ところが、やはり運というのがあるらしく、この利家が慶長4年(1599)3月に死んだ。絶好のチャンスである。このころ、世間では、前田利長が突然領地の加賀に帰ったので、こう噂した。

「いよいよ、利長様が家康様に反乱を起こすようだ」

実をいえば、利長を加賀に戻したのは家康である。家康はおためごかしに、

「父上が亡くなられて、国許でもいろいろと御用がおありだろうから、一度帰国なさってはどうか」

と勧めたのである。はやくいえば、邪魔者を大坂から追っ払ってしまったということだ。が、世間ではそう見なかった。そして家康自身も、前田利長がそういう噂を立てられていることを利用した。

家康はある日、本多正信をよんで、ひとりごとのようにつぶやいた。

「故郷へ帰った利長をひとつ征伐してやるかな。おれに歯向かうということになるから」

家康がこういう話をしはじめると、本多正信は途端にうつらうつら居眠りをはじめた。コクリコクリとやっている正信を、家康はイライラした気持ちで見つめていた。しかし、正信の居眠りが続いているうちに、家康は考え直した。

(そうか、正信の奴は反対なのだ。利長を敵に回すよりも、むしろ味方にしたほうがいいといっているのだ)

と気づいた。そこで、またひとりごとをいった。

「やっぱり加賀に軍を出すのはやめよう。それよりも前田利長を味方にしたほうが、これからのおれにどれほど力になるかわからない」

このつぶやきが終わるころ、本多正信は居眠りからさめた。そして、

「ああ」

と大きな伸びをした。脇に家康がいたことにはじめて気づいたふりをして、

「おや、そこにおいででしたか」

といった。家康は、

(このとぼけおやじめ)

と思ったが、ニヤニヤ笑っていた。そして、

「どうだ? 何かいい夢でも見たか?」

ときいた。

「はい、とてもいい夢を見ました」

正信は答え、こういった。

「道を歩いておりますとな、突然吠えかかる犬に会いました。大きな犬でございました。しかし、もっていた餌をやりますと、犬は吠えるのをやめ、尻尾を振ってなついてまいりました」

家康は、もう一度、

(このとぼけおやじめ)

と思った。夢にかこつけて、前田利長の扱いについて忠告したのである。家康は、ニコニコ笑いながら座を立った。そのうしろ姿に本多正信は黙って平伏した。

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