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本多正信と壁書十箇条~徳川幕府の基礎を築いた、家康の経営派ナンバー2

2018年10月24日 公開
2018年10月24日 更新

童門冬ニ(作家)

世代交代

本多正信はそういう謀臣だったが、彼の本領は、むしろ戦国時代が終わって、徳川家康が徳川幕府を開いたのちに発揮される。平和な時代になってから、持ちまえの経営能力を遺憾なく発揮するからだ。それが、戦争しか知らない徳川四天王たちには、

「ソロバン勘定ばかりしていて、あいつのそばにいると、こっちのハラワタが腐ってしまう」

といわせるゆえんなのである。

しかし、正信は平気だった。そういう徳川四天王たちを馬鹿にしていた。

「いつまでもそんなことをいっているから、どんどん時代に取り残されてしまうのだ。これからは、もうおまえたちの時代ではない。基礎の学問をしっかり修め、どんな小さなことでもないがしろにしない管理運営の技術を身につけた人間が、伸びる時代なのだ。大きな声でわめいたり、しきたりだの根回しだの、そんなことをいっている時代はとっくに終わったのだ」

と思っていた。いまでいえば、合理化や技術革新をどんどん導入しなければ企業はつぶれてしまうという考え方である。つまり生き残るためには、思いきって組織の体質を変えることが大事だと考えていた。そして、

「そのためには何よりも、幕府から給料をもらう連中が、ここで根本的に意識を変えなければ駄目だ」

と考えていた。この物差しからすれば、徳川四天王などはズレにズレていて、古い時代の遺物でしかなかったのである。
 

歴史の橋渡し

初期の徳川幕府の政治は、「二元政治」だといわれる。二元というのは、駿府城(静岡)に拠点を置いた徳川家康と、江戸城に拠点を置いた息子の秀忠とが政治を行なったからである。このころ家康はすでに隠居していて、「大御所」と呼ばれていた。しかし、現在でいえば、彼は代表権を渡さない会長のような存在であった。現役以上に、会社の仕事に対して次々と口を出した。ズラリとブレーンをそろえていた。これがまた異色であった。このブレーンは、次のようなグループから成り立っていた。

・大名グループ
・坊さんグループ
・学者グループ
・商人グループ
・特別技能者グループ(とくに鉱山の開発や、農政に長じた者たち)
・外国人グループ

これらのグループにそれぞれ所属した人物は、次の通りだ。

・大名グループ:本多正純(本多正信の子)、成瀬正成、安藤直次、竹腰正信、松平政綱、板倉重昌、秋元泰朝
・坊さんグループ:金地院崇伝、天海
・学者グループ:林羅山ほか
・商人グループ:茶屋四郎次郎、後藤庄三郎、角倉了以、湯浅作兵衛、長谷川左兵衛
・特別技能者グループ:伊奈忠次、大久保長安、彦坂元正など
・外国人グループ:ウイリアム・アダムズ(三浦按針と呼ばれた)、ヤン・ヨウステン(ヤン・ヨウステンが縮まって、ヤヨスと呼ばれた。東京の「八重洲」という地名は、彼の名を取ったものだ)

一方、表の政府、つまりフォーマル組織である江戸城の幕府のほうは、秀忠をトップとして、次のような人物たちが配属されていた。本多正信、青山忠成、内藤清成、大久保忠隣、酒井忠世、土井利勝、安藤重信、酒井忠利、水野忠元、井上正就、島田利正などである。

ここで奇妙なことが起こっている。それは、徳川家康のブレーンの筆頭に自分の息子を置き、正信自身は秀忠側にいることだ。本多正信は、この構成表で見る限り、徳川秀忠のナンバー2になっているのだ。そして、家康側のナンバー2には息子を置いている。しかし、ここにも謀臣らしい彼の配慮があった。それは、

「これからは、家康様側のなさることは知恵の出しあいだ。つまり、静岡におられる家康公のブレーンは、よい知恵を出すことによってお仕えするのだ。そこにおれのような知恵袋がいては、ブレーンたちも知恵を出しにくかろう。それよりも、そっちのほうにはあまり才能のない息子を据えておいたほうが、彼らも伸び伸びと知恵を出すに違いない」

と考えたのだ。本多正純は、父親の正信から見れば不肖の子であった。正信は死ぬ時に、

「どうか、私が死んだら、私の給与を半分ぐらいに減らして息子にやっていただきたい」

と遺言している。そっくり与えると正純は増長して、ろくな仕事もしないからだと心配しているのである。

同時にまた江戸のフォーマルな組織に自分が乗り込むことによって、秀忠が自分なりの側近をつくったり、あるいは家康の意向を無視して勝手な仕事ができないようにしたのだ。はっきりいえば、本多正純という息子は静岡側における監視役であり、正信自身は江戸政府における監視役であったのだ。

実際問題として、この本多父子が江戸と静岡に分かれて目を配っていたから、初期の徳川幕府は、それなりに江戸と静岡が相乗効果を起こして、知恵を出しあい、またそれを実行していったのである。こういう点、本多正信というナンバー2の知略ははかり知れないものがある。その点を家康も見込んだのに違いない。

やがて徳川家康は大坂の陣を起こし、豊臣氏を徹底的に滅ぼしてしまう。このとき、豊臣秀頼の子に国松というのがいた。まだ幼い。

「どうするか」

と問題になった。多くの者は、

「豊臣家は滅びてしまったのだから、こんな幼児を残しておいても、のちの害にはなるまい。命を助けてやったほうがよい」

という意見で一致していた。しかし、正信だけは違った。

「いや、そういう仏心は、のちのちまでの害になります」

と敢然と家康に「国松を殺しなさい」と進言した。家康自身もこんな小さい子供を殺す気はなかったが、本多正信の強い意見によって国松を殺した。

豊臣氏を滅ぼした翌年、すなわち元和2年(1616)の6月、本多正信も、家康の49日の翌日に死んだ。79歳であった。本多正信はいってみれば、「戦国期から平和期に移行する時期の、徳川家康のナンバー2であった」ということができるだろう。

正信は自分なりに座右の銘を持っていた。次のようなものである。

・酒の飲み過ぎは、はやく死ぬ地形だ。
・堪忍は身を立てる壁だ。
・苦労は栄華のいしずえだ。
・倹約は主君に仕える材木だ。
・珍膳珍味は、貧しさの柱だ。
・しゃべり過ぎや、あさはかな考えは身を滅ぼす根太だ。
・人情は家をつくる畳だ。
・法度(掟)は、部下を使う屋根だ。
・派手に振舞うことは、借金の板敷きだ。
・わがままは、友人に憎まれる障子だ。

右の十カ条は、常に忘れてはならない、としている。

守るべき事柄を、建築物とその付属品にたとえたものだ。彼らしい。

※本稿は、童門冬二著『名補佐役の条件』より一部を抜粋編集したものです。

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