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戊辰戦争150年、悲劇の先にあるもの~福島・旧幕府軍の戦跡を訪ねて

2018年09月21日 公開
2023年10月04日 更新

長尾剛(作家)

会津若松城
会津若松城(写真提供:福島県)
 

新島八重、中野竹子...

新島八重は、当時、会津藩の砲術師範であった山本権八の娘として生まれ、砲術を学んだ。

猪苗代城を発った新政府軍は、瞬く間に会津若松城下へ殺到する。このとき、城下町では多くの悲劇が生まれた。

先の白河口の戦いで総督を務めていた西郷頼母の屋敷では、これから行なわれる籠城戦で、

「足手まといにならぬよう、参りましょう」

と、女子供21名が自刃している。

その後、約1カ月の間、籠城戦が展開されることになるが、新島八重は砲術を駆使し、また自ら銃を携え、最後まで戦い抜いた。

明治に入ってからは、同志社大学をつくった新島襄の妻となり、夫婦で日本の近代化に貢献した。

幕末を代表する女傑である。

*  *  *

「会津武士のおなごは、新島八重だけじゃありませんよ」

お土産屋さんのおばあさんが、マスコットを袋詰めしながら、話しかけてきた。

「中野竹子という人も、おりましてな。八重に負けず劣らず、勇ましいおなごでした」

私は、その名も知っていた。

* * *

中野竹子は、江戸詰勘定役・中野平内の長女として生まれた。幼い頃より聡明で容姿端麗、薙刀の名手であった。

会津藩主・松平容保が江戸から戻る際に、竹子は共に会津へ下ることになる。

そして、新政府軍の侵攻。

「早く城へ!」

しかし、竹子は城に入り損ねてしまう。そこで、城外にありながら、武家の婦女子20数名で隊を組む。「娘子隊」である。

得意の薙刀を振るい、勇ましく戦う竹子だったが、最期は新政府軍の銃に頭を撃たれてしまった。

敵の辱めを受けさせまいと、妹が介錯し、首を法界寺へ運んで梅の木の根元に埋葬したといわれている。

法界寺(写真提供:ニッポン城めぐり)
法界寺(写真提供:ニッポン城めぐり)

* * *

「会津の女の人って強い……」

私たちは2人とも、それ以上の言葉が出なかった。

現代の私たちがどんな言葉を並べても、彼女たちの覚悟の前では、そらぞらしくなるような気がしたのだ。

* * *

会津藩は藩主・松平容保の下、約1カ月、絶望的な状況の中で必死の籠城戦を続けた。

家老の佐川官兵衛や、元新選組の斎藤一が城外に出て、しぶとく遊撃戦を続けた。

だが、奥羽越列藩同盟諸藩の降伏が相次ぐ。9月に入ると、米沢藩も新政府軍に降ってしまい、会津藩はいよいよ孤立を深める。

「もはや、これまでか」

松平容保はついに、新政府軍に降伏することを決断した。明治元年(1868)9月22日のことである。

新政府軍の絶え間ない砲撃により、会津若松城は見るも無残な姿となっていた──。

この2日後に、最後まで抵抗を続けていた庄内藩も降伏。残った旧幕府軍は、海を渡り、戊辰戦争最後の舞台・箱館の地へと向かうことになる。

* * *

私たちの旅も終わりだ。もう東京に帰らなければならない。

帰りのバスの中で、スマホを見ていたミチ子が、

「ね。これ、ちょっと……」

と、画面を私に向けた。「佐川官兵衛」についての説明だった。

勇猛な会津武士であったこの家老は、戊辰戦争を生き残った。明治10年(1877)の西南戦争で政府軍として活躍、戦死を遂げた。喜多方市にある長福寺に、妻と共に眠っている。

「佐川……」

私は思わず、ミチ子の顔を見た。ミチ子は軽くうなずいた。

2人の頭には、佐川さんの強く、でも悲しそうな目が浮かんだ。それは、戊辰戦争で敗れていった武士たちの目と重なったように思えた。

佐川官兵衛夫婦の墓
長福寺にある佐川官兵衛夫妻の墓
(写真提供:ニッポン城めぐり)

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