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武田と真田。織田の侵攻で明暗が分かれた両家のその後

2018年10月16日 公開

歴史街道編集部

騎馬隊

武田家と真田家。天文15年(1546)頃に武田信玄のもとへ真田幸綱が出仕して以来、ともに乱世を歩んできた両家だが、織田信長の侵攻とともに、別々の道を歩むこととなる。

天正10年(1582)3月3日、真田昌幸による岩櫃城への撤退案を、最終的には容れなかった武田勝頼は、新府城に火を放ち、小山田信茂の居城・岩殿城へと向かった。

その際、勝頼は従兄弟の武田信豊に小諸城に向かうよう命じ、真田昌幸ら信濃と上野の諸将を糾合して後詰をするよう頼んだという。

ところが、勝頼が岩殿城近くにたどり着くと、小山田の離反が明らかとなる。

進退窮まった勝頼は、わずか百人ほどとなった家臣らとともに田野に向かう。そしてこの地で、最期を遂げた。享年37。嫡男・信勝も運命をともにし、ここに、その名を天下に轟かせた武田家は滅亡する。

『三河物語』によると、勝頼の首級と対面した信長は、「日本に隠なき弓取なれ共、運が尽きさせ給ひて、かくならせ給ふ物かな」と語ったという。信長も、勝頼を強敵として認めていたのであろう。

一方、新府城で勝頼と別れた昌幸、信幸、信繁は、無事に岩櫃へとたどり着く。

武田家の滅亡後、北条家への帰属も探った昌幸だが、織田軍が上野に迫ったこともあり、信長への臣従を決意する。

ところが、武田家滅亡から間もない天正10年6月、本能寺の変により信長は横死。

これを受け、織田家諸将は本領への帰還を急ぎ、旧武田領は上杉、北条、徳川による壮絶な争奪戦へと突入する(天正壬午の乱)。

この未曾有の混乱の中、昌幸は素早く動き、岩櫃城と沼田城を改めて確保。刻一刻と情勢が変わる中、上杉→北条→徳川→上杉と、巧みに従属先を変え、天正13年(1585)には、上田城に拠って徳川軍を撃破する。

さらに関白となった豊臣秀吉に接近し、正式に臣従が認められ、領地を安堵された。

かつて本領を追われ、苦汁をなめた真田家は、武田家のもとで力を培い、ついには大名に成長したのである。

参考文献‥平山 優著『武田氏滅亡』(KADOKAWA)



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