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戦艦大和とともに散った仁将・伊藤整一

2018年11月12日 公開
2023年03月31日 更新

『歴史街道』編集部

戦艦大和

一軍を指揮する将にとって、決断とは、勝敗にかかわるものもあれば、人命にかかわるものもあるだろう。

その後者に連なる決断で、後世に名を残したのが、伊藤整一である。

明治23年(1890)、福岡県三池郡開村(現・みやま市)に生まれた伊藤は、柳川の県立中学校伝習館の五年生の時に海軍兵学校に合格し、入校した。

昭和2年(1927)にはアメリカに駐在武官として派遣され、二年間駐在するが、この時の上司は山本五十六であった。伊藤は、これ以外でも山本に部下として仕えたことがあり、山本も伊藤を信頼していたという。

太平洋戦争開戦直前の昭和16年(1941)9月、伊藤は軍令部次長に就任する。次長として戦争回避に努力を払うが、開戦へと至ってしまう。

真珠湾攻撃自体は成功したものの、ミッドウェー海戦以降、日本海軍は敗退を重ね、軍令部次長として、伊藤は責任を痛感せずにはいられなかったに違いない。

昭和19年(1944)12月、そんな伊藤に転機が訪れる。戦艦「大和」を擁する第二艦隊の司令長官に任命されるのである。

しかし、戦局は悪化の一途をたどり、昭和20年(1945)4月には、アメリカ軍が沖縄に上陸を開始。

これを受け、軍令部内で「大和」を沖縄へと出撃させる案が浮上し、連合艦隊参謀長の草鹿龍之介がその命令を伊藤に伝えることとなる。

当初、伊藤は「無謀ではないか」と反対する。敵の制空権下に突入するのだから、当然であった。しかし、草鹿の「一億総特攻の魁となっていただきたい」との言葉に、「それなら、わかった」と承諾したという。

ただし、伊藤はこの時、草鹿にひとつ注文をつける。

「作戦がいよいよ遂行できなくなった時は、その後の判断は任せてほしい」

これが後々、伊藤の決断に繫がってくる。

4月6日、伊藤率いる第一遊撃部隊は徳山沖を出撃。翌7日、米空母艦載機約300機の攻撃を受ける。この時、沖縄に展開するアメリカ軍の指揮を執っていたのは、皮肉にも、伊藤が駐米中に深く親交を結んだスプルーアンス大将であった。

アメリカ軍の攻撃によって、いよいよ「大和」が沈み始めた時、伊藤は作戦中止の命令を出し、長官室に消えたという。

作戦中止が命じられなければ、生き残りの艦は、沖縄へと向かわなければならない。しかし、伊藤の命令により、残存艦は海上に投げ出された兵たちの救助にあたり、佐世保へ帰投することができた。

この特攻作戦による戦死者は約4000人に及ぶが、作戦中止により、救われた人命は、一説に3000人ともいわれる。

また伊藤は、沖縄への出撃直前、「大和」と「矢矧」の少尉候補生67名を退艦させている。これは、将来有為な若者を、道連れにしないようにとの配慮だったものと思われる。

伊藤の決断は、多くの人命を救ったのである。

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