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上杉鷹山の藩政改革はなぜ、成功したのか 

2019年01月18日 公開
2022年06月15日 更新

童門冬ニ(作家)

節約のみでは成功しない

さらに、松平定信と上杉鷹山とでは、改革の根本姿勢に違いがあった。改革というのは大雑把にいって、井原西鶴が元禄年間に立てた、いわゆる「西鶴商法」をそのまま踏襲するものだといっていいだろう。

西鶴商法とは、

●始末
●算用
●才覚

の3本柱によって進めるということだ。

「始末」は節約のことである。「算用」は財政のことであり、勘定の収支を合わせるということだ。「才覚」は、足りない資金を工面したり、あるいは財政運用の帳尻を合わせるために働かせる知恵などのことをいう。

が、西鶴は、

「才覚というのは始末のためだけに働かせる知恵ではない。むしろ不況の際に拡大再生産をするような知恵や努力をいうのだ」

という。

松平定信は、この商法に従えば「始末・算用」の段階に終始した政治家である。上杉鷹山は「始末・算用」も重視したが、そこで生じた余剰金をすべて拡大再生産に使うという「才覚」を働かせた人物だ。

上杉鷹山に対する評価は、むしろ、

「財政難にあえぐ米沢藩の財政を立て直す方法として、産業振興という拡大再生産に最も力を入れた人物」

といっていいだろう。

松平定信は、ひたすら諸経費を節約して収支の均衡を図ることに夢中になった人物だ。

ただ、かれはこれを実現するために、

●人を得ること
●事務処理を簡素化すること
●賞罰をはっきりすること

などを導入した。

つまり、人材育成や有能者登用や、信賞必罰、あるいは事務の簡素化などを図ったのである。しかし、いずれにしても、その行きつく先は勤倹節約であったことはいうまでもない。

かれはこれによって、

「いま落ちこみつつある幕府の権威をもう一度回復し、確としたものにしたい」

という信念を持っていた。

かれが自分の改革の指標としたのは祖父・徳川吉宗の享保の改革だった。吉宗の改革には「始末・算用」だけでなく、拡大再生産の面も多分にあった。が、定信の改革にはこれが欠落していた。その他、いろいろな理由によって、せっかく政治倫理を確立しつつあった定信の改革は、次第に国民に背を向けられるようになった。

国民はやがてこういう落首を詠んだ。

白河の清きに魚も住みかねて
元の濁りの田沼恋しき

江戸城内でもこんな落首を詠む者が出た。

世の中に蚊ほどうるさきものはなし
文武文武(蚊の鳴き声)と夜も寝られず

足下からこんなからかいの落首が出てくるようでは、トップもおしまいだ。

結局これは、定信が、

「幕威を回復し、幕政に政治倫理を確立したい」

という理想だけを先行させて、その理念を部下や諸大名たちに浸透させることを怠った結果にほかならない。

ということは、逆にいえば、自分に都合のいい意見だけを取りいれ、自分の目標に沿わない意見は全部退けたということにもなる。
 

「リストラクチャリング」の大切さ

そこへいくとハンデだらけの上杉鷹山は、あらゆる意見を聞きいれた。しかし、だからといって、その意見の波に押し流されたわけではない。かれも細井平洲という折衷学派の儒者によって、

「藩主というのは、民の父母でなければならない」

と教えられた。

かれの歌にも、

受けつぎて国のつかさの身となれば
忘るまじきは民の父母

というのがある。

かれの財政改革の目標は、

「民を豊かにする。そのことが国を豊かにする」

ということであった。

根底に「愛民」の理念があった。だから、かれは士農工商の身分制がやかましい時代に、武士にも農事や工事に従事させた。いってみれば、米沢藩では、士農工商の身分制をある程度壊してしまったのである。

かれは改革案をつくったときも、大量に刷り物にして全藩士に渡した。

「これをテキストにする。よく読んで理解し協力してほしい」
と告げた。

これは現代の経営方法でいえばリストラクチャリングだ。いま不況に陥った企業を再構築することを「リストラ」〟といっているが、リストラクチャリングの本来の意味は、

「自分の考え方に対立する人たちをも、理解させ、協力させ、味方に仕立てあげることだ」

という。

鷹山が行なったのは、このリストラクチャリングである。つまり、かれは自分の「富国愛民」の理念を実現するために、それに反対する連中にも否やをいわせないように、まず改革案をテキストとして全藩士に配った。同時に、それまで例のなかった総員あげての大会議を城内で何度も開いた。

そして、自分に反対する7人の重役が、

「これは自分たちだけでなく、全藩士の意見だ」

などといえば、また大会議を開いてこれを確かめた。

そして、重役のいうことが嘘だとわかると、鷹山は七人を厳罰に処するという果断な態度にも出た。こういう話は下にいくほど鷹山の評判を高めることになる。

鷹山は、

「灰のようなこの国にも、まだ消えていない火ダネがある。わたしをはじめ、城で働く人間の一人ひとりがそうなのだ」

といって、その火ダネを全藩士に燃えたたせようと火ダネ運動を起こす。

松平定信の意見の聞き方は、下部の意見を聞くといっても、やはり基本路線は上から下に指示命令を下す「トップダウン」だった。しかし、鷹山はそうではなく、各現場における、いまでいうQC活動を盛んにさせ、そのエキスを吸いあげる「ボトムアップ」を重視した。

松平定信の改革の失敗と、上杉鷹山の成功とは、下の者の意見を聞くという一点を捉えても、こういう違いがあったようだ。

※本稿は、童門冬二著『歴史人物に学ぶ 男の「行き方」 男の「磨き方」』より、一部を抜粋編集したものです。

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