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厳島の戦い~じつは徹底的な頭脳戦!小早川隆景、冴えわたる智謀

2018年12月28日 公開

河合敦(歴史作家)

宮島 厳島神社
 

合戦の勝敗を握る「村上水軍」の迷い

厳島は、陸地から1.8キロメートル沖合に浮かぶ、南北10キロメートル、東西4キロメートルの小島である。周知のように、厳島神社が鎮座する信仰の島であり、良港をもつため瀬戸内海の要衝としても栄え、浜辺には港町が広がっていた。

さらに大内氏が東征するさいは、軍港として用いられてきた。ただ、地形が非常に峻険なうえ、島全体が原生林におおわれ、大軍は自由な動きがとれない。

ここに陶晴賢を誘い込むため、毛利元就は宮ノ尾城に己斐豊後守と新里宮内少輔を入れた。この2人は、陶氏を裏切って毛利氏についた武将だった。あえて彼らを城将にすることで、晴賢を刺激しようとしたのだ。さらに元就は、「俺が宮ノ尾に城を築いたのはまちがいだった。もしこの城を晴賢に奪われたら、毛利は滅亡だ」と嘆き、重臣たちにも、「殿が私たちの反対を押し切って厳島に城を造ったのは失敗だ」といわしめた。間諜を通じてわざとこの情報を晴賢の耳に入れ、陶軍をおびき寄せるための撒き餌としたのだ。

決定打として元就は、腹心の桂元澄に陶氏への内通を命じた。そこで元澄は、晴賢に密書を送って宮ノ尾城の攻略をすすめ、「元就が救援のために厳島へ渡った隙に、自分は元就の本拠地・吉田城を奪う」と誓詞を差し出して約束したのである。

ここにおいて、ついに晴賢の気持ちが動き、一部の重臣の反対を押し切って、宮ノ尾城総攻撃のため、厳島への渡海を決意したのである。

この時点で陶氏の水軍は、毛利水軍に対し圧倒的優勢を誇っており、たとえ元就が厳島に後詰(援軍)にこようとも、晴賢には毛利船団を覆滅できる自信があった。だが、その慢心がまさに元就のねらいだった。元就には、陶水軍を凌駕できるめどが立っていたのである。

瀬戸内海に浮かぶ島々には、古来、多くの海賊が盤踞していた。小早川水軍のように大名に従う一族もいたが、利害によって動く独立性の高い海賊衆も存在していた。その最大の海賊衆が伊予(現在の愛媛県)の村上水軍だった。村上氏は因島(現在の広島県尾道市)、来島、能島(ともに現在の愛媛県今治市)に拠点をかまえ、互いに連携を保ちつつも、それぞれが独自の行動をとっていた。

すでに因島衆は毛利氏への加担を約束していたが、元就は三男・隆景を通じて、来島衆や能島衆へも強く働きかけていた。もし村上水軍が全面的に協力してくれるなら、毛利水軍は陶水軍に匹敵する規模となり、戦いは勝ったも同然といえた。

つまり、合戦の勝敗は、小早川隆景の交渉如何にかかっていたのである。

隆景は、使者として乃美宗勝を遣わし、

「せめて一日でよいから力を貸してほしい」

と誠意を込めて懇願した。

宗勝は、小早川水軍の総大将で、武勇誉れ高き海将であった。つまり、村上水軍に対して最大の敬意を払ったわけだ。

いっぽう、陶晴賢のほうでも、当然、村上一族には誘いをかけていた。ただ、毛利氏とは異なり、たんに一通の書簡をもって「わがほうに味方せよ」と伝えただけだったという。海賊の力を借りなくとも勝てる戦いだったし、「村上水軍が圧倒的に不利な元就に加担するはずがない」とタカをくくっていたのだろう。

実際、隆景の強い働きかけに対して、村上水軍はなかなか応じる気配を見せなかった。村上水軍にとっても、どちらにつくかは死活問題だったからだ。

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