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志賀親次~島津の大軍を孤塁で撃退!知られざる豊後の名将

2019年02月08日 公開

河合敦(歴史作家)

豊後竹田城址

岡城址(大分県竹田市)
「臥牛城」「豊後竹田城」とも呼ばれる難攻不落の山城。大友氏に仕えた志賀親次は、ここで島津軍を撃退した。少年時代を竹田で過ごした瀧廉太郎は、岡城をイメージしながら中学校唱歌「荒城の月」を作曲、発表した。
 

次々と島津方に寝返った豊後の諸将

天正12年(1584)3月、龍造寺隆信が島津氏との戦いで戦死し、鼎立状態が崩れると、にわかに活気づいた島津氏が大友氏の領国への侵略を強め、島津氏の領国と境を接する豊後国南郡(大野郡、直入郡)の調略の手を伸ばしはじめた。こうした危機的な状況において、大友宗麟はみずから大坂城の豊臣秀吉のもとへ行き、救援を求めたのである。

この間、島津氏の豊後国南郡に対する離間工作は急速に進展し、内応した津賀牟礼城(現在の大分県竹田市)主・入田義実が中心になって、七大家と呼ばれ南郡に盤踞する大友氏から分かれた一門衆・重臣の切り崩しが行われた。

なかでも、キリスト教宣教師が「豊後の諸将のなかでももっとも強大な権力をもつ」と語った北志賀氏の裏切りは大きな痛手だった。北志賀氏は、大友氏の始祖・能直の八男である能郷から始まる大友一族(三大庶家の一つ)だ。南北朝時代には豊後国直入郡直入郷の代官となり、やがて岡城を拠点とするようになった。

なお、同郡南山城に拠る志賀氏は庶家筋にあたり、「南志賀」と呼ばれ北志賀氏とは区別されている。

ともあれ、一門衆の北志賀氏が大友氏に叛旗をひるがえしたのには訳がある。

同年、大友義統の命を受けた北志賀氏の当主・志賀親守は、島津氏の侵攻を防ぐため、その侵入口と予想される宇目村(現在の大分県佐伯市)に城を構築して拠点とした。

だが、島津氏が大挙して来襲するとの噂が頻々と流れるようになると、これに恐怖した親守は、なんと大友氏に無断で守備を抛棄して宇目から逃げもどったのである。大友義統はこれに激怒し、親守を隠居させた。

しかし、親守の跡を継いだ嫡男・親孝も、それからまもなく義統とのあいだで悶着を起こす。義統に仕えていた「一の対」という女を、親孝が盗み取ってしまったのだ。このため親孝も義統に罰せられ、菅迫という場所に蟄居させられた。

こうした苦境に陥ったため、志賀親守・親孝父子は、入田義実を通じて島津氏に内応の約束をしてしまったのだろう。以後、北志賀氏は入田氏とともに、島津方に大友氏の情報を流し、同時に一万田氏、朽綱氏、戸次氏、柴田氏など有力な南郡衆に働きかけ、寝返りを成功させていった。

そうしたなか、頑として誘いに応じず、島津の大軍が襲来したときも大友氏に忠節を尽くし、戦い抜いた男がいる。それが、志賀親次である。
 

己の信仰を守るため島津氏に立ち向かう

親次は親孝の長男で、このときわずか18歳だったが、親孝が蟄居したあと、北志賀氏の家督を相続した。親次はまだ12、3歳のころからキリスト教に心を寄せ、やがてキリスト教に入信してドン・パウロという洗礼名を名乗るようになった。

だが、キリスト教を毛嫌いしていた祖父の親守は、親次の受洗に猛然と反対し、親次を廃嫡しようとたくらんだという。いずれにせよ、親次はキリスト教をめぐって祖父や父親と険悪な関係になっていたのである。

そうしたことに加えて、大友宗麟が熱心なキリシタンだったのに対し、島津氏はキリスト教を固く禁じていた。この事実も、親次の行動に大きく影響したと思われる。

――もし豊後国が島津氏の支配するところとなれば、まちがいなくキリスト教は排撃されるだろう。

だから親次は、己の信仰を守るため、敢然と島津氏に立ち向かうことを決意したのであろう。

天正13年(1585)11月、ついに島津氏の大友領内(豊後国)への侵攻が開始された。島津義久は島津軍を二手に分け、弟の義弘を肥後から、同じく弟の家久を日向から攻め込ませた。

大友氏の南郡衆が寝返って進軍を手引きしたため、島津軍は大友方の諸城をやすやすと落とし、家久軍は豊後重岡から宇目をへて大野郡三重へ進み、大友義統が拠る豊後府内をめざしていった。

いっぽう、肥後方面から進軍した義弘軍は、肥後国野尻から直入郡に入り、豊後府内への後詰を防止するため、志賀親次が籠もる岡城を包囲し、新納忠元を先鋒大将として激しく攻め立てた。一説には、その数は2万を超えたという。

しかし、親次が拠る岡城は、稲葉川と白滝川に挟まれた標高325メートルにそびえる舌状の溶岩台地に存在する。滝廉太郎の「荒城の月」のモデルだといわれている。

「志賀太郎親次が籠もりたる岡の城と云けるあり、此の岡城、東西と云けるは十八町ばかりにして南北に大河をおい、四方ことごとく岩壁峨々として峙ち、松柏森々として道を閉じ、苔深く岩滑にして手足を措に所なし」と、『豊薩軍記』に記されているように、簡単に攻め込めない天然の要害であった。

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