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第12代・景行天皇と日本武尊

2019年04月22日 公開
2023年10月04日 更新

吉重丈夫

渋谷向山古墳(景行天皇陵)奈良県天理市
渋谷向山古墳(景行天皇陵)
奈良県天理市

天皇陛下の譲位と平成改元という節目の年に、歴代天皇の事績をふりかえります。今回は「景行天皇」をお届けします。

※各天皇の年齢等については数え年で計算して記しています。
※即位年、在位年数などについては、先帝から譲位を受けられた日(受禅日)を基準としています。
※本稿は、吉重丈夫著『皇位継承事典』(PHPエディターズグループ)より、一部を抜粋編集したものです。

吉重丈夫著『皇位継承事典』
 

第12代 景行天皇
世系17、即位84歳、在位60年、宝算143歳

皇紀648年=垂仁17年(前13年)、垂仁天皇の第三皇子として誕生された大足彦忍代別命(おおたらしひこおしろわけのみこと)で、母は丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと、開化天皇の皇孫)の女王・日葉酢媛(ひばすひめ)である。

皇紀668年=垂仁37年(8年)1月1日、大足彦忍代別命が21歳で立太子される。

皇紀730年=垂仁99年(70年)7月14日、先帝・垂仁天皇が崩御される。

翌皇紀731年=景行元年(71年)秋7月11日、皇太子・大足彦忍代別命が84歳で即位された。

皇紀732年=景行2年(72年)3月3日、吉備臣らの祖・稚武彦命(わかたけひこのみこと、孝霊天皇の皇子)の女王・播磨稲日大郎姫(はりまのいなひのおおいらつめ)が皇后に立てられ、大碓尊(おおうすのみこと)、小碓尊(おうすのみこと、日本武尊)の双子の母となられる。

皇紀734年=景行4年(74年)春2月11日、天皇は美濃国に行幸され、泳宮(くくりのみや、岐阜県可児市)に滞在されて、八坂入彦命(やさかのいりひとのみこと、崇神天皇の皇子)の娘・八坂入媛命を妃とされる。八坂入媛は七男六女をもうけられ、そのうちの第一皇子・稚足彦命(わかたらしひこのみこと)が次の第13代成務天皇となられる。

天皇の皇子女は全部でおよそ80人おられ、大碓尊、小碓尊(日本武尊)、稚足彦命(成務天皇)、五百城入彦命(いおきいひひこのみこと)を除いて、他の皇子は皆それぞれ国司や郡司(地方長官)に封ぜられ、それぞれの国の任地に赴かれた。

天皇の分身が日本の各地に赴任されたともいえる。しかし五百城入彦命、稚足彦命(成務天皇)、大碓尊、小碓尊(日本武尊)の4人だけは何処にも封じられなかった。後嗣候補として残されたのである。

五百城入彦命の王子・品陀真若王(ほむたまわかおう)は後に第15代応神天皇の皇后となられた仲姫命(なかつひめのみこと)の父となられる。つまり、仲姫命は景行天皇の曾孫に当たる。

11月1日、都を纒向日代宮(奈良県桜井市)に遷された。

皇紀743年=景行12年(82年)8月15日、熊襲が叛いたので、これを征伐すべく天皇自ら軍を率いて西下される。

皇紀743年=景行13年(83年)夏5月、熊襲平定を遂げられ、日向高屋宮(ひむかのたかやのみや、宮崎県西都市岩爪)に6年滞在された。この国に御刀媛(みはかしひめ)という美人がおられ、天皇はこれを召して妃とされ、豊国別皇子(とよくにわけのおうじ)をもうけられた。日向国造の先祖である。

皇紀749年=景行19年9月20日、九州から還幸される。6年余りの行幸であった。

ヤマトタケル
日本平・日本武尊像(静岡県静岡市)

景行天皇が帰還されて8年経った景行27年8月、熊襲が再び叛いて辺境を侵す。

冬10月、今度は皇子の小碓尊(日本武尊)を遣わして、これを討伐させられる。この時、日本武尊は16歳であった。

熊襲平定から帰還されておよそ20年余り経った皇紀770年=景行40年(110年)6月、東北の蝦夷が叛いて辺境が動揺した。そこで今度は兄の大碓尊に鎮定を命じられるが、大碓尊は隠れてしまわれたので「望まないなら無理に遣わすことはない」として、大碓尊には美濃を治めるよう命じられ、大碓尊は任地の美濃に赴かれた。

7月16日、天皇は再度、小碓尊(日本武尊)を征夷の将軍に任じて詔される(「日本武尊に東夷を伐たしめ給うの詔」)。

皇紀773年=景行43年(113年)、小碓尊(日本武尊)が蝦夷平定を終えての帰途、伊勢国の能褒野(のぼの、三重県亀山市)で病を発せられ薨去される。存命であれば立太子しておられた可能性が高い。

皇紀781年=景行51年(121年)8月4日、日本武尊が薨去されてから8年が経ち、以前景行4年に美濃に行幸された時、妃とされた八坂入媛命の皇子・稚足彦命(成務天皇)を皇太子に立てられる。成務天皇条には景行46年に立太子されたとあるが、実際はこの時にすでにある程度決定しておられたと思われる。

立太子に当たっては、小碓尊(日本武尊)が3年前に薨去しておられ、他の皇子たちは地方の国司などに任じられていたので、稚足彦命の立太子については特に紛争はなかった。

むしろ小碓尊の薨去を受けて、後嗣を定めるために、ここで稚足彦命を皇太子に立てられたのである。この時までは小碓尊を皇太子に立てる意思を持っておられたと推定される。

皇紀782年=景行52年(122年)5月4日、皇后の播磨稲日大郎姫(はりまのいなひのおおいらつめ)が薨去されたので、同年7月7日、妃の八坂入媛命を新たに皇后に立てられた。

皇紀790年=景行60年(130年)11月7日、143歳(皇統譜)で崩御される。『日本書紀』には106歳、『古事記』には宝算137歳とある。

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