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永田鉄山、石原莞爾、武藤章…陸軍の戦略構想から見える「対米戦」への分岐点

2019年04月23日 公開
2021年08月11日 更新

川田稔(名古屋大学名誉教授・ 日本福祉大学名誉教授)

永田鉄山
永田鉄山

なぜ、昭和の戦争は避けられなかったのか。現在発売中の月刊誌『歴史街道』2019年5月号で、名古屋大学名誉教授の川田稔氏は、陸軍の戦略構想に着目して、対米戦にいたる過程を論じている。永田鉄山、石原莞爾、武藤章ら陸軍を主導した軍人たち、それぞれの戦略構想から浮かび上がるものとは。
 

川田稔(名古屋大学名誉教授・ 日本福祉大学名誉教授)
昭和22年(1947)、高知県生まれ。名古屋大学大学院法学研究科博士課程修了。専攻は政治外交史、政治思想史。『昭和陸軍の軌跡』で、山本七平賞受賞。著書に『昭和陸軍全史』(1〜3)、『石原莞爾の世界戦略構想』などがある。

 

ドイツを火種に再び大戦が起こる

昭和の陸軍は、「明確な国家構想を持たぬまま、無謀な戦争に突入した」と語られることがある。

しかし、陸軍は何の戦略構想も持たなかったわけではない。本稿では、陸軍の戦略構想を軸に、満洲事変、日中戦争、そして太平洋戦争へと至った過程を明らかにしていきたい。

陸軍の戦略を語るうえで欠くことのできないのが、大正7年(1918)に終結した第一次世界大戦である。

この戦争では、民間人も合わせると2千万人近い死者が出た。このような戦争を繰り返せば、人類そのものの運命が破壊されてしまう。そのような考えのもと、ヨーロッパを中心として、再び世界大戦を起こさぬよう、国際協調の流れが生まれてくる。

この時、次の大戦の発火点になりうると危惧されたのが、ヨーロッパとアジア、とりわけドイツと中国であった。

列強の利害が錯綜する中国は、「東洋のバルカン」とも言われ、この地の安定が、東アジアの平和維持に重要だとみなされた。

そこで、日本、アメリカ、イギリスが中心となり、「九カ国条約」が結ばれる。ようするに、中国をこれ以上、列強の勢力下に取り込まないという取り決めであった。

この条約を中心とする東アジアの協調体制を「ワシントン体制」といい、日本の政党政治も、その国際協調の流れを支持し、それによって世界大戦を防止しようとする。

ところが、「次の世界大戦は、止められない」と考える者たちがいた。それが、永田鉄山を中心とする陸軍の中堅将校たちで、彼らは後に一夕会を結成する。

永田は将来的に、ドイツを火種として、ヨーロッパで再び大戦が起きると見ていた。

というのも、第一次世界大戦後にヨーロッパで成立した「ヴェルサイユ体制」によって、ドイツは軍備制限や高額の賠償金を課され、国内で不満が高まっていた。その一方ドイツの工業地帯は健在で、国力そのものは落ちていない。となると、やがて国力を充実させたドイツは、実力で再興を図ろうとするだろう。

ヨーロッパで戦争が起きれば、列強の利害が絡み合うアジアにも飛び火する。好むと好まざるにかかわらず、日本は戦争に巻き込まれる……。

これが、永田の見立てであった。しかも、第一次世界大戦をヨーロッパで目の当たりにした永田は、次の大戦は必ず、国家総力戦になると見込んでいた。永田だけでなく、海外の多くの軍事関係者も同じように見ていた。

そういう永田からすると、国際連盟を中心とするワシントン体制とヴェルサイユ体制で平和を維持できるという、政党政治側の考えは甘いものに見えた。

政党政治のもとでは様々な利害調整が必要となり、時間がかかってしまう。次の大戦に備え、国家総力戦の準備が急務だ。そのためには、軍人が政治を動かしていかなければならない。これこそが、永田の考えであった。
 

次の大戦に備えて……満蒙領有論の登場

もっとも、政党政治側も、戦争が起こり、国家総力戦になる可能性をまったく考えていなかったわけではない。その点は当時、陸軍を主導していた宇垣派も同様だった。

長期の国家総力戦になった場合、日本にとって大きな問題となるのが、資源の確保だ。

宇垣派は、戦争の際には、日本─朝鮮─満洲とで可能な限り資源を自給し、足りない分は米英から輸入しようと考えていた。だからこそ、両国との協調を重視したのである。

それに対して永田は、資源の面で米英に依存することに批判的であった。米英からの輸入を前提にすると、両国の動向によって、国策が左右されてしまうからである。

では、永田は資源をどう確保するつもりだったのか。重要な軍需資源を調査すると、中国の華北と華中を押さえれば、だいたい4年間は自給自足できるという計算になった。

永田は、日本が権益を持つ満洲を、中国での資源確保のための橋頭保にしようと企図した。そして彼の周辺から「満蒙領有論」という構想が出てくるのである。

協調外交で大戦を防ごうとする政党政治と宇垣派に対して、永田は「大戦不可避」という立場から、構想を練っていたと言えよう。

なお、満蒙領有論に関していうと、昭和6年(1931)に陸軍が引き起こした満洲事変は、昭和4年(1929)に始まった世界恐慌から脱するためのものとして語られる。

実際、事変を主導した石原莞爾も、それに近いことを書き残している。しかし石原は永田と同じ一夕会員で、考えも近く、恐慌以前から満蒙領有を主張していた。

つまり、永田と石原も、世界恐慌以前から満蒙領有計画を温めていたのであり、世界恐慌は、その計画を実行するための好機として捉えられたのである。

現地で石原が主導し、それに連携して、陸軍中央で永田らが後押しする。それこそが、満洲事変の実態であった。

満洲事変は、陸軍内の権力転換ももたらした。昭和6年12月、犬養毅内閣の成立に伴い、一夕会が推す荒木貞夫が陸軍大臣となり、宇垣派は陸軍中央から一掃される。

やがて、一夕会は統制派と皇道派に分かれ、昭和11年(1936)の二・二六事件後は、統制派が陸軍中央を押さえ、彼らが日本を動かしていくこととなる。

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