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永田鉄山、石原莞爾、武藤章…陸軍の戦略構想から見える「対米戦」への分岐点

2019年04月23日 公開
2021年08月11日 更新

川田稔(名古屋大学名誉教授・ 日本福祉大学名誉教授)

東条英機
東條英機
 

陸軍が見抜けなかったアメリカの意図

ところが陸軍の期待に反し、ドイツはイギリスを降せないばかりか、昭和16年6月には、あろうことかソ連へ侵攻する。

ここに、陸軍の目算は完全に崩れ、再び進路を問われることになる。この時、参謀本部の田中新一はソ連への進攻を主張した。それに対して、武藤は静観を訴える。ドイツが負けた場合、英米につく選択肢を残すためであった。

そこで田中は、武藤の病休中に東條英機陸相に掛け合い、ソ連戦を見据えた計画を認めさせる。それは、85万もの大軍をソ満国境に動員するものであった(関東軍特種演習、通称「関特演」)。

一方、武藤はかねてから陸軍が進めようとしていた南部仏印への進駐を実施させる。これは、当面の資源を確保しておこうというものだった。田中ら参謀本部も、その実施を強く主張していた。

ところが、昭和16年7月に南部仏印への進駐を実施すると、8月1日、アメリカは対日石油制限を発表する。

当初、ルーズベルトは全面禁輸を意図していなかった。というのも、それをすれば、日本と戦争になるのが明白だったからだ。

それにもかかわらず、アメリカ政府内の対日強硬派によって、8月1日以降、実質的に全面禁輸措置が取られる。

日本の近衛文麿首相が、全面禁輸を把握したのは8月7日のことだが、驚くべきことに、ルーズベルトがこの事実を知ったのは9月上旬であった。ところが、ルーズベルトは全面禁輸を継続させる。

9月5日、チャーチル経由でスターリンの書簡を受け取ったルーズベルトは、ソ連の危機的状況を知ったからである。

ここで、ソ満国境に集結した関東軍がソ連に雪崩れ込めば、苦境に陥ったソ連はドイツと単独講和しかねない。そうなれば、ドイツはイギリスとの戦いに専念でき、イギリスも敗れる……。

それは、ルーズベルトにとって最悪のシナリオだった。そうなれば、アメリカはヨーロッパへの足掛かりを失うだけでなく、大西洋からドイツ、太平洋から日本と、東西から挟まれることにもなる。

それを危惧したルーズベルトは、日本を南進させるべく、禁輸を継続させたのである。そうすれば日本は、ソ連ではなく、石油を求めてオランダ領インドネシアに向かい、ソ連は救われる。ルーズベルトはイギリスを救うべく、石油の全面禁輸を容認したのである。

そもそも陸軍は、南部仏印進駐が英米をさほど刺激するとは思ってもいなかった。ましてやソ満国境の関特演が、石油全面禁輸に繫がっているとは、思いもしなかっただろう。陸軍の戦略構想は、世界全体の動きを読み切れなかったと言えよう。

その後、日本がハル・ノートを手交され、開戦を決意するのは周知のとおりである。

第一次大戦後、日本陸軍は様々な構想のもとに、進んできた。初めから構想が誤っていたのか、あるいは途中で誤ったのか。その判断は、各自の見方で異なるだろう。

しかし、こうした経緯のもとに開戦へと至ったことは、貴重な歴史的経験として、後世の我々も知っておくべきだろう。

※本稿は、『歴史街道』2019年5月号 特集《昭和史の本質》掲載記事より、一部を抜粋編集したものです。

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