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神功皇后と応神天皇(第15代)

2019年05月13日 公開
2019年05月13日 更新

吉重丈夫

第15代・応神天皇
世系20、即位71歳、在位41年、宝算111歳

皇紀860年=仲哀9年(200年)12月14日、仲哀天皇の第四皇子として誕生された誉田別命で、母は気長足姫命(神功皇后)である。

先帝・仲哀天皇崩御の翌々年神功皇后2年2月、皇后は群卿百寮を率いて穴門豊浦宮(下関市)に移られ、仲哀天皇のご遺体を収めて海路で都に向かわれる。

この時、前述の通り、仲哀天皇の皇子の麛坂皇子と忍熊皇子が、皇后に皇子(異母弟)が誕生したと知り、謀反を起こされたが鎮圧される。

麛坂皇子と忍熊皇子の母は大中姫命で、誉田別命より年長ではあるが、皇后の皇子ではないので即位は難しく、それだけに却って焦りが出て誉田別命を亡き者にしようと考えられたのであろう。

しかしこれも叶わず誉田別命が立太子される前に自滅された。

皇紀863年=神功皇后摂政3年(203年)春1月3日、誉田別命が4歳で立太子される。二人の異母兄の反乱が鎮圧された後に立太子された。

皇紀917年=神功皇后摂政57年(257年)、大鷦鷯命(おおさぎきのみこと、仁徳天皇)が誕生される。

その後、生年は不詳であるが、後に皇太子となられる菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)が誕生される。

皇紀929年=神功皇后69年(269年)4月17日、神功皇后が薨去された。

皇紀930年=応神元年(270年)春1月1日、71歳で即位される。立太子されて67年後に即位しておられる。

実際には神功皇后の下で、天皇として朝政を執っておられた可能性が高い。母君である神功皇后の下で称制しておられ、ここに正式に即位されたと考えられる。都は軽島豊明宮(かるしまのとよあきらのみや、奈良県橿原市大軽町)に置かれた。

応神2年3月3日、品陀真若王(ほむたまさかおう)の娘・仲姫命(なかつひめのみこと)を立てて皇后とされる。品陀真若王は五百城入彦皇子(いおきいりびこのみこ)の王子で、景行天皇の孫王である。

皇紀996年=応神40年(309年)春1月8日、天皇は皇子の大山守命と大鷦鷯命を呼んで、

「お前達、子供は可愛いか」と尋ねられ、「可愛いです」とお答えになると、「大きくなったのとまだ小さいのとではどちらが可愛いか」と尋ねられた。

大山守命が「大きくなった方が良いです」と申し上げる。天皇は喜ばれないご様子で、大鷦鷯命は天皇のお心を察せられ「大きくなったら心配ありません。小さい方は未だどうなるか不安です」と申し上げる。天皇は大いに喜ばれ「お前の言葉は真に朕が心に適っている」と詔される。

早速1月24日、菟道稚郎子を立てて皇太子とされ、大山守命は山川林野を司る役目とされ、大鷦鷯命を太子の補佐役とされた。

ここで、天皇が後嗣をお決めになって菟道稚郎子を皇太子に立てられた。

大鷦鷯命の母は皇后の仲姫命であり、菟道稚郎子の母は妃・宮主宅媛(みやぬしやかひめ)である。宮主宅媛は和珥(わに)氏の祖・日触使主(ひふれのおみ)の娘で、通常であれば皇后の皇子である兄の大鷦鷯命が皇太子に立てられるところである。日触使主の祖は和珥臣であり、和珥臣の祖は天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと、孝昭天皇の第一皇子)で皇族である。

兄・大鷦鷯命のことが最もよく分かっておられたのが当の菟道稚郎子で、父帝の応神天皇が崩御された後、当然就くべき皇位を兄に譲られる。

いずれにしても、ここで菟道稚郎子を皇太子とされ、大鷦鷯命をその補佐とされたことで、他にも皇子は多数おられたが、どなたも皇位を争ってはおられない。

崩御される1年前のことで、天皇はこの時にはっきりと後嗣をお決めになったと見てよい。

皇紀970年=応神41年(310年)春2月15日、在位41年にして111歳で崩御される。古事記には130歳とある。

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