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始皇帝の実像~現代中国でも再評価される偉業

2019年05月16日 公開

渡邉義浩(早稲田大学理事・教授)

兵馬俑
始皇帝陵の兵馬俑
 

中国を初めて統一した始皇帝は、その偉業の一方で、暴君のイメージがつきまとっている。しかし、彼の政治は、世界史を大きく変えるとともに、現代中国と日本を考えるうえで重要な存在なのだ。
 

PROFILE

渡邉義浩 Watanabe Yoshihiro
早稲田大学理事・教授。昭和37年(1962)、東京都生まれ。筑波大学大学院歴史・人類学研究科博士課程修了。文学博士。三国志学会事務局長。専門は中国古代思想史。著書に『春秋戦国』『魏志倭人伝の謎を解く 三国志から見る邪馬台国』などがある。『始皇帝 中華統一の思想』が近刊予定。

構成・文:狩野詔子
 

統一以前の中国とは

秦の始皇帝(前259〜前210年)というと、今から2000年以上も前の人物であり、日本人にはあまり馴染みがないかもしれません。

しかしその存在は、現代中国だけでなく日本にも、少なからず関係があります。

儒者を穴埋めにし、書物を焼く「焚書坑儒」という言葉があるように、始皇帝は「言論弾圧をした暴君」といったイメージで語られることもありますが、それは後世の創作であり、その業績は現代中国で高く評価されているのです。

中国では古くから、「大一統」といい、「皇帝が支配する中華世界は、統一されなければならない」という考え方があります。

それは現代でも変わることはなく、チベットやウイグルなどの少数民族問題を抱える中国にとって、史上初めて中国全土を統一、つまり「大一統」を実現した始皇帝は、きわめて重要な役割を果たしたことになるのです。

では、そもそも始皇帝が登場する以前の中国は、どのような状態だったのでしょうか。そしてなぜ、始皇帝は中国統一を果たせたのでしょうか。

始皇帝以前の中国を、春秋戦国時代(春秋時代は前770〜前403、戦国時代は前403〜前221年)といいます。

この時代には、周という王朝がありましたが、春秋時代には中央の権威が衰えるとともに、集権制度が緩み、300くらいの邑制国家が存在していました。

邑制国家とは城壁を持つ都市で、春秋時代はまだ、中央の権威が尊重されました。

ところが戦国時代になると、富国強兵を実現したものが下克上をし、国々が潰しあうようになります。その中で生き残ったのが、7つの大きな国であり(「戦国の七雄」)、始皇帝の秦も、そのひとつだったのです。
 

統一を果たせた「3つの要因」

七強国のひとつとはいえ、秦はもともと後進国でした。

穆公(?〜前621年)の時代に「西戎の覇者」と呼ばれていた秦は、いわゆる中原の地からは離れた場所に位置し、経済的にも文化的にも、他国に遅れを取っていました。

法律も、隣国である魏の法律(魏律)を引用していましたし、商業においても「布銭」という趙・魏・韓の貨幣を使用していたことから、これらの国の経済的影響下にあったと考えられます。

そうした国情にありながら、始皇帝が中国を統一できた要因は何か。それはおおよそ3点、挙げられます。

その1つ目は、「法家思想に基づく改革」です。

法家思想というのは「信賞必罰」という言葉で表されるように、法を厳格に運用して、人々を統制しようとする考え方です。

始皇帝自身も、法家思想を重視していましたが、秦では孝公(前381〜前338)の治世に、宰相の商鞅という人が「商鞅の変法」という改革を進めます。

それは、氏族制社会の解体、君主権力の強化を目的としたものでした。

氏族とは、共通の祖先を持ち、祖先への信仰・祭祀を共有する、宗教的・血縁的な結びつきを持つ集団です。この時代は、氏族制社会の枠組みが強く残っていました。

そうすると、氏族の頂点には、王族のような有力者がいます。そこを法家は、有力者に対しても、普通の民と同じような原理原則で信賞必罰をおこない、みなが君主のために尽くそうとする体制にしようとしたのです。

信賞必罰を徹底的におこない、民であっても、軍功を挙げれば出世できる。一方で、王の弟であっても、功績がなければ地位を剝奪される……。この結果、君主のみが唯一強大な権力を持つ存在となったのです。

なぜ、こうした改革を実現できたのか。それが2つ目の要因で、逆説的ではありますが、「後進国だった」ことにあります。

法家思想は、君主だけに権力を集中し、それ以外の者には全く権力を持たせず、平等であるという考えです。この思想を浸透させるにあたり、一番の障害となるのは君主の一族、王族です。

たとえば楚では、下克上が少なかったため、王族が山ほどいました。そうなると、国力が100あったとしても、王族の多さから力が分散されてしまいます。

ところが、秦は新興国であったために、王族の人数が少なく、また氏族制も楚や斉と比べて弱い。だからこそ、商鞅の変法による改革が進んだのです。

法家思想と後進的な社会状況というものが、うまくマッチした、と言えるでしょう。

3つ目の要因として、「騎馬戦術」が挙げられます。

この時代は、伝統的な戦術として、馬はもっぱら戦車を牽くために用いられていました。これに対して「騎馬戦術」は、直接騎乗することにより、高い機動力を発揮できる。

秦の西方には、馬に乗って戦う異民族がおり、秦はこれら異民族との交戦を通じ、騎馬戦術を取り入れていたのです。

この3つの要因によって、秦は台頭しますが、いずれも始皇帝以前から始まったことでした。そのため、始皇帝が秦王に即位したときには、他の六国を圧倒する国力を有し、それによって、中国統一を果たすのです。時に、紀元前221年のことでした。

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