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第16代・仁徳天皇の即位

2019年05月20日 公開
2019年05月20日 更新

吉重丈夫

仁徳天皇陵

大仙陵古墳(大阪府堺市)
クフ王ピラミッド、始皇帝陵と並ぶ世界3大墳墓、5世紀中ごろ築造とされ全長約486mの日本最大の前方後円墳。宮内庁により百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)として仁徳天皇の陵墓に治定されているが謎も多い。大仙陵古墳を含む「百舌鳥・古市古墳群」がユネスコの世界文化遺産に登録される見通し。
 

令和改元という節目の年に、歴代天皇の事績をふりかえります。今回は「仁徳天皇」をお届けします。

※各天皇の年齢等については数え年で計算して記しています。
※即位年、在位年数などについては、先帝から譲位を受けられた日(受禅日)を基準としています。
※本稿は、吉重丈夫著『皇位継承事典』(PHPエディターズグループ)より、一部を抜粋編集したものです。

吉重丈夫著『皇位継承事典』
 

第16代・仁徳天皇
世系21、即位57歳、在位87年、143歳

仁徳天皇は、皇紀917年=神功皇后57年(257年)、応神天皇の第四皇子として誕生された大鷦鷯命(おおさざきのみこと)。母は景行天皇の孫、五百城入彦(いおきいりびこ)の王である品陀真若王(のむたまわかおう)の娘で、先帝・応神天皇の皇后である仲姫命(なかつひめのみこと)である。

先帝・応神天皇は崩御直前に菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)を皇太子に立てられたが、先帝が崩御されると、菟道稚郎子は先帝・応神天皇崩御直後の応神41年2月、「即位を辞して皇兄・大鷦鷯命に諮(まお)し給へる令旨」を発せられる(令旨とは皇太子・三后〈太皇太后・皇太后・皇后〉の命令を伝えるために出される文書)。

「天下に君として以て万民(おおみたから)を治むるは、民を蓋(いただきおほ)ふこと天の如く、容るること地の如く、上驩(かみよろこ)べる心ありて、以て百姓を使わしむれば百姓欣然(おおみたからよろこびて)、天下安らかなり。今私(やつがれ)は弟なり、且つ文献(さとり)足らず。何ぞ敢えて嗣位(ひつぎのくらい)を継ぎて天業(あまつひつぎ)を登(し)らむや。大王は仁孝の徳もあり年長です。天下の君となるのに充分です。先帝(応神天皇)が私を太子とされたのは特に才があるからではなく、ただ寵愛を受けただけ、宗廟社稷(くにいえ)に仕えることは重大なことです。私は不肖で兄王にはとても及びません。兄は上に弟は下に、聖者は君となり愚者は臣となるは古今の典(通則)、どうか帝位にお即き下さい。私は臣下としてお助けするばかりです」(『日本書紀』)

と即位を辞退される。

これに対し大鷦鷯命は、

「先帝は『皇位は一日たりとも空位にしてはならぬ』。それで前もって明徳の人を選び、王(菟道稚郎子)を皇太子としてお立てになった。天皇の嗣(みつぎ)に幸いあらしめ万民をこれに授けられ、国中にこれを宣せられた。私は不肖、どうして先帝の命に背いて、弟王の願いに従うことができましょう」

とこれまた即位を固辞された。

このような中で、異母兄の大山守命(おおやまもりのみこと)が、太子に立てられなかったことを恨んで太子を殺そうと挙兵する。

大鷦鷯命はこれをいち早く察知され太子に告げて、謀で大山守命を誅された。

多数おられた皇子の中でこの大山守命だけは強い不満を持っておられたことが分かるが、先帝のご存命中はその不満を打ち明けられなかったのであろう。

この大山守命の乱という大事件も起きて、太子・菟道稚郎子は「兄の志を変えられないと分かった。これ以上生きて天下を煩わせることは忍びない」として、「妹・八田皇女(やたのひめみこ)を後宮に入れて下さい」との遺詔を残して、先帝・応神天皇崩御2年後の皇紀972年=応神43年(312年)に自害し果てられた。

お互いに皇位を譲り合っておられる間に、大山守命の反乱があり、皇太子・菟道稚郎子は兄に即位頂くには他に方法はないと悟られ、自害し薨去されたのであった。太子は現在も宇治上神社(京都府宇治市)に祀られている。

こうしてお互いに皇位を譲り合っておられ、3年の空位の末、皇紀973年=仁徳元年(313年)春1月3日、ようやく大鷦鷯命が57歳で即位される。

ここでは、先帝の意思とは違った経緯で、皇太子の異母兄・大鷦鷯命(仁徳天皇)が即位された。

もっとも、先帝・応神天皇は菟道稚郎子を皇太子に立てられる前に、多数おられる皇子のうち大鷦鷯命と大山守命の2人を呼ばれて口頭試問され、菟道稚郎子が皇位に即かれた後に大鷦鷯命を補佐役に任じておられるので、大鷦鷯命が即位されたことは、あながち先帝のご意向から離れたものではなかった。

また先帝は大鷦鷯命を差し置いて菟道稚郎子を皇太子にされたことを気にしておられたことが分かる。大鷦鷯命もそのことをよく理解され、あくまでも先帝のお決めになった通りにすべきと主張されたのであった。

大鷦鷯命はずっと後になって、この異母弟の菟道稚郎子の遺詔通りに、亡き太子の同母妹・八田皇女を後宮に入れて妃とされた。

八田皇女は菟道稚郎子の妹であり、先帝・応神天皇の皇女であるのに、なぜ菟道稚郎子の遺詔通りに、皇后に立てられなかったのかについては疑問が残る。異母兄妹であることが障害となったのであろうか。

摂津国難波高津宮(大阪市中央区高津)に宮を置かれた。

皇紀974年=仁徳2年(314年)春3月8日、磐之媛(葛城襲津彦の娘)を立てて皇后とされた。

葛城襲津彦は武内宿禰の子で、大和葛城地方の古代豪族・葛城氏の祖である。

皇后・磐之媛命との間では、大兄去来穂別命(おおえのいざほわけのみこと、履中天皇)、住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)、多遅比瑞歯別命(たじひのみずはわけのみこと、反正天皇)、雄朝津間稚子宿禰命(おあさずまわくごのすくねのみこと、允恭天皇)の四皇子に恵まれる。

また、妃・日向髪長媛(にむかのかみながひめ)との間に誕生された皇子女に、大草香皇子(おおくさかのみこ)と草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめのにめみこ)がおられた。

大草香皇子は後に讒言がもとで安康天皇に殺害され、草香幡梭姫皇女は雄略天皇の皇后となられる。

皇紀1003年=仁徳31年(343年)春1月15日、8歳になられた大兄去来穂別命(履中天皇)を立てて皇太子とされる。

妃・日向髪長媛を母とする大草香皇子がおられたが、母の身分が低いこともあってか、即位の候補にはならなかったようである。

日向の諸県君牛諸井(もろあがたのきみうしもろい)は朝廷に仕えていたが、年すでに老いて本国の日向に帰った。

その時、娘の髪長媛を先帝・応神天皇に奉った。

この髪長媛は美人の誉れ高く、皇子の大鷦鷯命が恋い焦がれていることを応神天皇がお知りになり、この髪長媛を皇子の大鷦鷯命に娶らせられた。

そして大草香皇子と草香幡梭姫皇女をもうけられたのであった。

皇紀1007年=仁徳35年(347年)夏6月、山城の筒城宮(京都府京田辺市)で皇后の磐之媛命が薨去された。

皇紀1010年=仁徳38年(350年)春1月6日、菟道稚郎子の妹・八田皇女を新たな皇后に立てられた。自害された異母弟・菟道稚郎子との約束を38年経ってようやく果たされたことになる。

皇紀1059年=仁徳87年(399年)1月16日、在位87年、143歳で崩御される。

日本書紀には没年齢の記載はなく、在位87年とある。皇統譜にも在位87年とある。古事記には83歳で崩御されたとあり、皇統譜の記述と大きく違っている。

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