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第22代・清寧天皇と飯豊天皇

2019年06月17日 公開

吉重丈夫

星
 

令和改元という節目の年に、歴代天皇の事績をふりかえります。今回は「清寧天皇」「飯豊天皇」をお届けします。

※各天皇の年齢等については数え年で計算して記しています。
※即位年、在位年数などについては、先帝から譲位を受けられた日(受禅日)を基準としています。
※本稿は、吉重丈夫著『皇位継承事典』(PHPエディターズグループ)より、一部を抜粋編集したものです。

吉重丈夫著『皇位継承事典』
 

第22代・清寧天皇
世系24、即位37歳、在位5年、41歳

皇紀1104年=允恭33年(444年)、雄略天皇の第三皇子として誕生された白髪武広国押稚日本根子皇子(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのみこ 白髪皇子)で、母は大泊瀬稚武命(おおはつせわかたけるのみこと、雄略天皇)に殺害された葛城円大臣娘・葛城韓媛である。

皇后も妃もなく、従って皇子もおられなかった。

皇紀1138年=雄略22年(478年)1月1日、御名「白髪皇子」の通り、生来白髪であったため、父の雄略天皇は霊異を感じて皇太子とされた。

白髪皇子が立太子された翌雄略23年8月7日、父帝・雄略天皇(62歳)が崩御される。

雄略天皇は大伴室屋と東漢掬直に後嗣に関して特別に遺詔された。

「今天下は一つ家に纏まり竈の煙もよく上がっている。民よく治まり、四囲の夷もよく従っている。臣・連・伴造は毎日参朝し国司、郡司もよく参集する。義には君臣だが、情においては父子も同じである。内外の人の心を喜ばせ、長く天下を安らかに保たせたい。病重くなり、常世の国に至るということは世の常、言うに足らぬことであるが、朝野の衣冠のみは未だ定めなかった。教化政刑も充分よく行われたとは言えない。
……星川稚宮皇子(第三皇子)は心に良くないことを抱いて、兄弟愛の道に欠けた、古人の言葉に『臣を知るは君に及ぶ者なく、子を知るは父に及ぶ者なし』と。たとえ星川が志を得て、共に国を治めても、きっと辱めを臣・連らに及ぼし、民は辛い目に遭う。できの悪い子は民に嫌われ、できの良い子は大業を保つのに足りる。
……皇太子(白髪皇子)は跡継ぎとして仁孝の心が良く聞こえ、その行いを見ても我が志を継いで成し遂げるのに足る。それで天下を治めてくれれば瞑目しても恨むことはない」と。

前年皇太子を立てて後嗣を定められたが、ここでまた改めて星川皇子を後嗣としないようにと遺詔しておられる。つまり星川皇子を皇位継承者からはっきりと排除しておられる。

星川皇子は上道臣田狭(かみつみちのおみたさ)の妻であった吉備稚姫を雄略天皇が奪ってもうけられた皇子である。

雄略天皇崩御の後、皇子は大蔵の役所を占拠し、反乱を起こしたので、大伴室屋、東漢掬直らに討伐された。この星川皇子の反乱は不幸にして先帝・雄略天皇の遺詔通りとなってしまった。

星川皇子の同母兄に磐城皇子がおられたが、この皇子は弟・星川皇子の反乱を諫めている。しかし皇位継承者の候補者とはなっていない。

皇紀1140年=清寧元年(480年)1月15日、前年10月4日、星川皇子の反乱は鎮定され、大伴室屋大連が臣・連たちを率いて、皇位の璽(鏡、剣、勾玉)を皇太子に奉り、白髪皇子が即位される。37歳であった。先帝・雄略天皇の遺詔があった上に、群臣の願いがあって即位された。

都を磐余甕栗宮(いわれのみかくりのみや 奈良県橿原市東池尻町の御厨子神社)に置かれた。

皇紀1141年=清寧2年(481年)冬11月、大嘗祭のための供物を調えるために、伊予来目部小楯(いよのくめべのおたて)を勅使として播磨に遣わされる。

この時、明石郡の縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)の家で館の新築祝いが催され、その宴に招かれた来目部小楯は、そこで市辺押磐皇子(履中天皇の第一皇子)の王子である億計王(おけのみこ 後の仁賢天皇)と弘計王(をけのみこ 後の顕宗天皇)の兄弟を発見する。二人とも履中天皇の孫王に当たる。

兄弟は宴もたけなわで舞を舞わされ、その時の歌で、「我らは履中天皇の孫であるぞ」と身分を明かされる。「市辺宮に天下治しめしし天万国万押磐尊(履中天皇皇子)の御裔僕是なり」とお言葉を発せられる。明かせば殺されるという危険も当然あったが、この機を逸すれば、二度と機会はないと、勇気を出して身分を明かされたのである。

小楯は吃驚し、早馬で天皇にこれをお知らせする。天皇は、「天は大きな恵を垂れて、二人の皇子を賜った」とお喜びになり、勅使を立てて節刀を持たせ、明石郡に迎えさせられた。

翌清寧3年春1月1日、億計・弘計の二王を宮に迎え入れられる。

この年、4月7日、天皇は早速、億計王(兄)を東宮(皇太子)に立てられ、弘計王(弟)には親王宣下され、親王とされた。

12月、億計王(仁賢天皇)は「皇弟・顕宗天皇をして先に御位に即かしめ給へるお言葉」を発せられる。勇気を出して名乗り出ることを主張した弟・弘計王を皇位に就けるお言葉を出されたのであった。

皇紀1144年=清寧5年(484年)1月16日、在位5年(4年と1日)、41歳で清寧天皇が崩御される。后妃はなく、皇子女もなかった。宝算については『水鏡』には41歳、『神皇正統記』には39歳とある。
 

飯豊天皇

清寧天皇が崩御されてから弘計王が即位されるまで、およそ10ヶ月間、弘計王・億計王兄弟の同母姉・忍海飯豊青皇女(おしぬみのいいとよあおのひめみこ 磐坂市辺押磐皇子の女王)が朝政を執られたが、この飯豊青皇女も皇紀1144年=清寧5年11月に薨去された(45歳)。飯豊天皇は允恭天皇29年に誕生しておられるので、億計王の9歳年長、弘計王の10歳年長である。

皇統譜には飯豊天皇と記載され、皇紀1144年=清寧5年(484年)2月即位とある。しかし、現在は天皇として数えられていない。後の女性天皇・推古天皇誕生に際して先例とされた可能性はある。

皇紀1100年=允恭29年(440年)、磐坂市辺押磐皇子の皇女として誕生された忍海飯豊青皇女で、母は葛城蟻臣の女の荑媛である。

現在天皇としては数えられていないが、皇統譜には飯豊天皇として扱われている。次の顕宗天皇、その次の仁賢天皇はともに同母弟である。

皇紀1144年=清寧5年(484年)1月16日、清寧天皇崩御を受け同年2月、即位され、葛城角刺(葛城市忍海)に宮を置かれた。

皇紀1144年11月、在位10ヶ月、45歳で崩御された。

清寧天皇崩御から顕宗天皇が即位されるまでの間、天皇として朝政を執られたということで、最初の女性天皇(男系)の役割を果たされたといえる。



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