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第31代・用明天皇への皇位継承と崇仏排仏抗争の激化

2019年07月26日 公開
2019年07月26日 更新

吉重丈夫

大仏
 

知っておきたい皇位継承の歴史

令和改元という節目の年に、歴代天皇の事績をふりかえります。今回は「用明天皇」をお届けします。

※各天皇の年齢等については数え年で計算して記しています。
※即位年、在位年数などについては、先帝から譲位を受けられた日(受禅日)を基準としています。
※本稿は、吉重丈夫著『皇位継承事典』(PHPエディターズグループ)より、一部を抜粋編集したものです。
 

第31代・用明天皇

世系27、即位46歳、在位2年、宝算48歳

皇紀1200年=欽明元年(540年)、欽明天皇の第四皇子として誕生された橘豊日皇子(たちばなのとよひのみこ)である。母は蘇我稲目の娘・堅塩媛(きたしおひめ)で、先帝・敏達天皇は異母兄に当たる。

皇紀1234年=敏達3年(574年)1月1日、橘豊日皇子に第二王子・厩戸皇子(聖徳太子)が誕生される。母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ、母は蘇我稲目の娘・小姉君)である。

同じ蘇我稲目の娘である蘇我石寸名(そがいしきな)を母とする用明天皇の第一皇子に田目皇子(ためのみこ)がおられ、厩戸皇子(聖徳太子)の異母兄であったが、生没年不詳で立太子はされなかった。

皇紀1245年=敏達14年(585年)秋8月15日、敏達天皇が崩御される。皇太子を立てておられなかった。最初の皇后・広姫には押坂彦人大兄皇子8おしさかひこひとおおえのみこ)がおられたが、立太子はしておられない。蘇我稲目の娘を母とする異母兄弟が多数おられ、その蘇我氏の思惑が大きく影響し、皇太子を決められなかったものと推察される。

9月5日、先帝・敏達天皇の崩御を受け、先々帝・欽明天皇の第四皇子で母が蘇我稲目の娘・堅塩媛の橘豊日皇子(用明天皇)が46歳で即位される。先帝・敏達天皇の異母弟である。

皇子の押坂彦人大兄皇子は橘豊日皇子に比し年齢がまだ若かったとはいえ、8年後の皇紀1253年=推古元年には第一王の田村王(舒明天皇)が誕生しておられるので、即位できない年齢ではなかったかも知れない。母が同じ豪族でも息長氏で、蘇我氏の方の勢力が強かったためと思われる。

この時期から豪族蘇我氏の勢力は益々強まり、皇后、妃を入れ、皇位継承に大きな影響を及ぼすようになる。ここで先帝・敏達天皇の第一皇子・押坂彦人大兄皇子に皇位が移らず、異母弟の橘豊日皇子(用明天皇)が皇位に就かれたことが大きな分かれ道になった。蘇我一族が皇位継承をはじめ、その他の政治上の実権を握る。

結局この皇位継承で、敏達天皇からその皇子への継承ではなく、用明、崇峻、推古と蘇我稲目を外祖父とする、敏達天皇の異母弟、異母妹へと皇位が継承されることになった。しかも史上初めて(神功皇后は天皇ではないとして)推古天皇という女性天皇が誕生される。しかしこの推古天皇の後は、また敏達天皇の皇子である押坂彦人大兄皇子の王子・田村王(舒明天皇)に皇位が継がれた。

この年、都を大和国磐余池辺双槻宮(いわれいけべのなみつきのみや)に遷される。

皇紀1246年=用明元年(586年)1月1日、欽明天皇の第三皇女・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)を皇后に立てられた。そして四人の皇子、厩戸皇子(聖徳太子)、来目皇子(きめのみこ)、殖栗皇子(えくしのみこ)、茨田皇子(まんだのみこ)をもうけておられた。そして穴穂部間人皇女の母は蘇我稲目の娘・小姉君で、用明天皇の異母妹である。母は違うが、共に欽明天皇の娘で、異母兄妹の関係である。また泊瀬部稚鷦鷯皇子(はつせべわかさぎのみこ、崇峻天皇)および穴穂部皇子は同母弟である。

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