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琵琶湖の水を引く! 京都復興に懸けた明治人・北垣国道と技術者たち

2020年01月30日 公開
2023年10月04日 更新

秋月達郎(作家)

インクライン
 

疏水が生み出した景観

京都はめざましく発展した。北垣の後を継いだのは、京都市長として着任した西郷菊次郎だった。

菊次郎の父隆盛は、勿論そのようなつもりはなかったが、結果として禁門の変において京を焼け野原にしてしまった。そうした惨禍の罪滅ぼしとおもったかどうかは別として、ともかく菊次郎は身を粉にして京の復興に尽くした。

第二疏水の建設、水道事業、そして市電の開通である。

明治28年(1895)、京都電気鉄道が開業したが、運営は迷走していた。

菊次郎はこれの市営化も見据えて市営電気鉄道を敷設した。むろん、水力発電による鉄道である。

この日本初の鉄道車輛『狭軌1形2号』は、いまでも残されている。平安神宮の南神苑で保存されているのだが、ここの神苑の水は疏水を引き込んだものである。

神苑だけではない。疏水は無鄰菴、清流亭、碧雲荘、真々庵、智水庵、何有荘、大寧軒、流饗院、洛翠、怡園、有芳園、円山公園、市立動物園、永観堂、居然亭、並河靖之邸などにも引き込まれ、東山の景観を形づくっていった。

いまひとつ、疏水を引き込んだ邸宅がある。画家の橋本関雪が建てたもので、軒を深く取った大画室には導水された芙蓉池の反射光が穏やかに巡っている。

関雪は名を成すまで困窮を極めた。ちょうど西郷菊次郎が京都市長として三大事業に邁進しているときだったが、ただそのとき関雪はまだ入洛していない。

関雪が京都岡崎に住むようになったのは大正2年(1913)だが、ひとたびは四条派に属しながらも、あるとき京を離れた。しかし、後に帰京。このとき、京を捨てた自分を京の人々は温かく迎えてくれた。

そうした京都の人々への感謝は年を経るごとに募り、大正11年(1922)、妻ヨネに相談して人々の恩に報いるべく、疏水分線の畔に360本のソメイヨシノを寄贈した。

この関雪桜と呼ばれることとなった美しい花弁を愛でつつ思索を巡らせたのが、京都大学教授の西田幾多郎で、これにより疏水分線の堤は『哲学の道』と呼び習わすようになっていった。

幾多郎は昭和14年(1939)に歌を詠んだ。

その歌『人は人吾はわれ也とにかくに吾行く道を吾は行なり』は碑となって、現在、哲学の道に佇んでいるのだが、ここを訪ねる人々が踏み締める石畳こそ、疏水の電力で走行した市電の鉄路が敷かれていた御影石である。

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