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皇極天皇(第35代)と乙巳の変~建国後、はじめての譲位

2019年08月29日 公開
2022年07月14日 更新

吉重丈夫

乙巳の変

蘇我入鹿が山背大兄王を滅ぼしてから1年半余りの後、皇紀1305年=皇極4年(645年)6月12日、「乙巳の変」が起きる。

半島三韓から進貢の使者が来朝し、皇極天皇ご臨席のもと、宮中で献納の儀式が行われた。儀式の最中、中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)が天皇の御前で蘇我入鹿を誅殺する。

「これは一体何事か」と天皇に詰問されたのに対し、中大兄皇子は平伏し「入鹿は王子たちを全て滅ぼして皇位を傾けようとしています。入鹿を以て天子に代えられましょうか」とお答えになる。天皇は直ちに退去された。

翌13日、入鹿の父・蘇我蝦夷は自害した。これで権勢を縦ままにしていた蘇我本宗家が一瞬にして滅亡する。

蘇我馬子が「崇峻天皇弑逆事件」を起こして、その孫の入鹿が「乙巳の変」で誅されるまで53年、半世紀余り、蘇我氏が皇位を壟断していた。

蘇我馬子は崇峻天皇を弑し、皇位継承候補者の穴穂部皇子、宅部皇子を殺害し、子の蝦夷は山背大兄王擁立を主張した蘇我境部摩理勢を殺害し、孫の入鹿は皇位継承候補者・山背大兄王を殺害した。

こうして蘇我氏は馬子、蝦夷、入鹿と三代にわたって天皇や皇位継承候補者を次々に亡き者にし、皇位継承に大きく介入したのであった。
 

皇位の譲位の始まり

「乙巳の変」の翌々日6月14日、皇極天皇は在位4年で退位され、同母弟の孝徳天皇に譲位される。皇子である中大兄皇子に皇位を譲ろうとされたが、中大兄皇子は中臣鎌足と相談の結果、皇弟・軽皇子(孝徳天皇)に即位を願い、中大兄皇子が皇太子になられる。皇極天皇が皇弟・軽皇子に皇位を譲られた。中大兄皇子は「乙巳の変」の当事者であり、さすがに即位は控えられたのである。
 

譲位

ここで建国以後1300余年にして初めて皇位の譲位が行われる。それまでは皇位はいわゆる終身制であり、皇位の継承は天皇の崩御によってのみ行われていた。皇位継承の方法の大変革となり、以後、皇位の譲位というものが頻繁に行われるようになる。皇位継承の仕方が多様化したといえるが、その反面皇位継承に関係者の思惑が入り、争いを巻き起こす結果ともなった。

なお、明治の御世以後は、また旧に復して皇位の継承は天皇の崩御によってのみ行われることになった。

ところが皇紀2678年=平成30年3月9日「天皇の退位等に関する皇室典範特例法施行令」が公布され、今上天皇陛下から皇太子への譲位が行われることとなった。法律があっても陛下のご意向が優先されるという本来の皇位継承が行われることとなった。皇位の継承といった日本の国体に関する基本事項については、陛下のご意向と皇族に関する慣習法が憲法や皇室典範に優先するということが実証されたのである。

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