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孝徳天皇(第36代)への皇位継承と大化の改新

2019年09月05日 公開

吉重丈夫

夕景
 

知っておきたい皇位継承の歴史

令和改元という節目の年に、歴代天皇の事績をふりかえります。今回は孝徳天皇と大化の改新をお届けします。

※各天皇の年齢等については数え年で計算して記しています。
※即位年、在位年数などについては、先帝から譲位を受けられた日(受禅日)を基準としています。
※本稿は、吉重丈夫著『皇位継承事典』(PHPエディターズグループ)より、一部を抜粋編集したものです。
 

第36代・孝徳天皇
世系30、即位50歳、在位10年、宝算59歳

皇紀1256年=推古4年(596年)、敏達天皇の皇子・押坂彦人大兄皇子の王子・茅渟王の第一王子として誕生された軽皇子で、母は欽明天皇の第六皇子である桜井皇子の王女・吉備姫王である。先帝・皇極天皇(斉明天皇)の同母弟であり、中大兄皇子、間人皇女、大海人皇子の叔父に当たる。

皇紀1305年=皇極4年(645年)6月14日、「乙巳の変」で皇極天皇による史上初めての譲位が行われ、軽皇子が皇太子を経ないで孝徳天皇として50歳で即位される。皇極天皇は神器を軽皇子に授けて位を譲られた。

最初に軽皇子は舒明天皇の第一皇子・古人大兄が皇位を継がれるべきと、自らの即位を辞退されたが、古人大兄は即座に出家された。

6月19日、元号を建てて大化と定める。

12月9日、都を摂津国難波長柄豊碕宮(大阪市)に遷された。

皇極天皇は中大兄皇子に皇位を譲ろうとされたが、中大兄皇子は中臣鎌足と相談の結果、皇弟・軽皇子(孝徳天皇)に即位を願い、中大兄皇子が皇太子になられた。「乙巳の変」を引き起こした当事者であるから、さすがに直ぐの即位は良くないであろうということになったのである。

「乙巳の変」の後、阿倍内麻呂(阿倍倉梯麻呂)を左大臣に、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣に、中臣鎌子(鎌足)を内臣とした。蘇我倉山田石川麻呂は「乙巳の変」で暗殺の合図となる三韓の上表文を大極殿で読み上げた人物である。蘇我馬子の子・蘇我倉麻呂の子であり、蘇我蝦夷は伯父、「乙巳の変」で殺害された蘇我入鹿は従兄弟に当たる。

軽皇子(孝徳天皇)は敏達天皇の曾孫に当たり、皇位継承候補であったが、中大兄皇子や古人大兄皇子といった有力候補もおられた。ところが、「乙巳の変」で中大兄皇子が即位を固辞され、古人大兄皇子も即位を辞退し出家されたので、軽皇子が皇極天皇の譲りを受け孝徳天皇として即位された。

この年大化元年、中臣鎌子(鎌足)は、内臣に任じられる。鎌足は「乙巳の変」で活躍し、その時の功績で中大兄皇子(後の天智天皇)に重用され、後に藤原姓を賜り、以後彼の子孫・藤原家が皇位継承問題を含め、日本の政治に大きな役割を担い続けることになる。

皇紀1305年=大化元年秋7月2日、天皇は舒明天皇の皇女で従妹(父方)であり姪(母方)に当たる間人皇女を立てて皇后とされた。間人皇女は後の天智天皇、天武天皇の同母姉妹(生年不詳)である。

また、孝徳天皇は左大臣・阿倍内麻呂(倉梯麻呂)の娘の小足媛を妃とされて、有間皇子をもうけられた。しかしこの有間皇子は後に謀反を企てたとして処刑される。

この年大化元年9月12日、古人大兄皇子が謀反を起こし中大兄皇子に攻め滅ぼされる。

皇紀1309年=大化5年(649年)3月25日、右大臣・蘇我倉山田石川麻呂が謀反の疑いありとの讒言により自害する。「乙巳の変」から4年後のことであった。

皇紀1314年=白雉5年(654年)10月10日、孝徳天皇は在位10年(9年4ヶ月)、59歳で難波宮にて崩御される。

孝徳天皇の在位は10年と短かったが、この御世に皇太子・中大兄皇子を中心として「大化の改新」が行われ、遣唐使が派遣されるなど激動の御世で、日本の歴史の大きな節目となった。しかも大陸の唐、半島三国の一つ新羅との緊張関係が極に達しているこの時期に崩御された。

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