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明智光秀は「左遷」を意識した?~ライバル・秀吉への援軍指令と出雲・石見への国替え



2019年09月27日 公開

小和田哲男(静岡大学名誉教授)

「左遷」を意識した光秀

『明智軍記』によると、信長からの命令をうけ、出陣の準備のために自分の居城にもどった光秀のところに、信長からの使いとして青山与三が訪れ、「出雲・石見の2カ国を与える。その代わり、丹波と近江の志賀郡は召し上げる」という信長の命令を伝えたという。

このことは『明智軍記』にしかみえないことなので、事実であるか否かの認定には慎重でなければならないが、ありえたことではないかと私は考えている。

ただ、このことをもって、怨恨説の根拠の一つに数え上げることには反対である。確かに、丹波国の場合は、丹波平定が完全に済んでから光秀がそれをもらっているので、そうしたやり方が一般的だったとの認識も生まれてくるが、光秀が近江国の志賀郡をもらったときはそうではない。

まだ平定されていないところを、いわば「空手形」のように与えられ、実際に腕ずくで自分のものにしていくということも、このころの所領の宛行にはみられたのである。したがって、まだ敵国の領地であるところを与えられたからといって、それを理不尽な行為とうけとるのはまちがっている。

『明智軍記』が、この青山与三によって伝えられた信長の命令を聞いたあと、「光秀并家子・郎等共闇夜ニ迷フ心地シケリ。其故ハ、出雲・石見ノ敵国ニ相向ヒ、軍ニ取結中ニ、旧領丹波、近江ヲ召上レンニ付テハ、妻子眷属少時モ身ヲ置ク可キ所ナシ」と記すのは、事実だったとは思えない。近世的価値観からくる『明智軍記』作者の解釈であろう。

『明智軍記』のこの書き方によるところが大であると思われるが、このとき、信長から、丹波・近江志賀郡を没収し、その代わりに、まだ敵の領国である出雲・石見が与えられることになったことで、光秀が信長に怨みの気持ちをもつようになったとされている。本能寺の変光秀怨恨説の有力な根拠とされているようであるが、私はそのようには考えない。

むしろ、場所が問題だったのではなかろうか。つまり、出雲・石見は、京都より遠く離れたところである。一国一郡から、二国の大名へというのは、形の上では栄転であるが、光秀のように、京都奉行、さらに「近畿管領」として、政権中枢にあった人間にしてみれば、これは「左遷」とうつったのではないだろうか。

政権中枢にいて、しかも前年天正9年2月28日の京都での馬揃えにおいては、光秀が織田軍全体の指揮を取る形だった。そうした陽の当たる場所、栄光の座から引きずりおろされることに何かを感じたはずである。

しかも、これから向かおうとする中国攻めは、中国方面軍管区司令長官羽柴秀吉の管轄下である。長年、ライバルとして功を競ってきた秀吉に一歩リードしたと思っていた光秀が、今度は秀吉の下につく形になるわけである。表面上は何事もないという態度はとっていても、内心おだやかではなくなっていたはずである。



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