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戦国家臣団に見る「乱世で生き残る」ための3つのポイント

2019年09月20日 公開
2022年06月22日 更新

小和田哲男(静岡大学名誉教授)

戦国武将
 

強い組織に必要なものとは何か――。

月刊誌「歴史街道」2019年10月号では、「戦国家臣団・負けない組織の条件」と題して、武田家臣団、織田家臣団、北条五代などを例に挙げつつ、組織のあり方に迫っている。特集内で、小和田哲男氏が「負けない組織」の条件として5つのポイントを挙げているが、ここではそのうちの3つについて紹介しよう。

 

毛利家の「厳しい掟」

戦国時代には、数多くの大名家が存在した。そうした中で、領土を広げたり、精強を謳われたりした軍団を見てみると、「負けない組織」の条件として、いくつかのポイントが挙げられる。

その一点目は、「軍律の厳しさ」である。

戦国大名は、合戦に勝つため、組織的な軍事行動をする必要から、軍律を定めた軍法書とか軍法掟などと称される文書を残している。そして、強さを発揮した戦国大名のそれを見ていくと、かなり厳しいことが書いてあることがわかる。

たとえば、中国地方の覇者となった毛利元就とその息子・隆元は、「大将の下知に従わなくて、抜け駆けして敵を討ち取ったとしても、それは功績にはならない」という内容の軍法を定めている。

戦国の世に生きる者であれば、手柄を立てたいものだ。しかし、みなが手柄を求めるあまり抜け駆けをすれば、組織的な戦いができなくなってしまう。

その一方で毛利父子は、「踏みとどまって戦うべきところを退いた者は、被官放つ事」、つまり退いたらクビにするとも定めている。

抜け駆けを禁じ、一方で、逃げることも禁じる……。これは一見、非常に厳しい内容だ。しかしいざ戦となれば、数千から数万の兵を統率しなければならない。

それだけの大人数がまとまりを保ち、組織的な戦闘をするには、厳しい軍律を欠くことはできなかったのである。

 

 「家臣のやる気」を 保つために 武田信玄がしたこと

だが、抜け駆け禁止というのは、難しい問題をはらんでいる。

家臣の中には、「功績を挙げて、一軍の将になりたい」とうずうずして、いざ合戦となれば、すぐにでも飛び出していきそうな者もいる。

一軍を率いる将は、家臣たちのそうした逸る心をうまく抑えなければならない。しかし一方で、そういう元気な者がいなければ、合戦に勝つのも難しいこともまた、事実である。

家臣のやる気を保ちつつ、組織として統率するというのは、並大抵のことではなかっただろう。

その意味で、「負けない組織」の要件の二点目として、「部下への励まし」が挙げられる。

部下たちのやる気を引き出すのは、戦国時代においても非常に重要なことであった。では、どうすれば、やる気がでるのか。そのためには現代同様、「褒める」ということが有効だった。

その点で長けていたのが、甲斐の武田信玄である。

武田家の事績や軍法を記した『甲陽軍鑑』(かつては史料としての価値が低いとする見方もされてきたが、近年は見直されている)によると、戦いに勝った時、信玄は「自分の采配がよかったから勝った」とは言わなかった。「お前たちの働きがよかったから勝った」といって、近習や小姓だけでなく、小人や中間といった身分の低い者をも褒めたのだ。

しかも、ただ褒めるのではない。『甲陽軍鑑』の他の記述からは、信玄が「どこがよかった」と、具体的に褒めていたことが窺えるのである。

人はともすれば、手柄を一人占めしたがるものである。しかし、それを上の者がしてしまえば、下の者は鼻白み、やる気を失ってしまうだろう。

大将が自分自身の功名心を抑えられるような組織でなければ、家臣は心服せず、勝つことはできないのである。

 

朝倉義景の先祖に見る「先見の明」

三点目としては、「能力本位の人材登用」が挙げられる。

そもそも戦国時代、特に前半は、世襲制が根強く残っており、家老の子に生まれれば、家老になるのが普通であった。

たとえば、のちに羽柴秀吉の軍師となる黒田官兵衛は、父・職隆が小寺家の家老だったため、若くして家督を継ぐと、家老職も継いでいる。

世襲した家老が官兵衛のように有能であればよいが、競争の激しい時代において、能力のない者が家柄だけで高い地位につけば、その組織が勝ち残っていくことは難しい。

その点、先見の明が光るのが、越前の朝倉孝景である。信長に滅ぼされた朝倉義景の四代前の当主で(義景の父も孝景という)、戦国時代初期に活躍し、朝倉氏繁栄の礎を築いた人物だ。

孝景が残した「朝倉孝景条々」には、「朝倉の家では宿老を定めてはならない。家臣の器量と忠節によって取り立てるべき」とか、「不器用の人に軍配を預けてはならない」といったことが記されている。

要するに、世襲を否定し、知恵と人徳を備えた人物を宿老に任ずるべきとしており、譜代門閥主義を打破しようとしていたことがわかる。

こうした能力本位の人材登用を最大限活用したのは、やはり織田信長であろう。

信長家臣団には、柴田勝家や丹羽長秀といった譜代もいたが、羽柴秀吉や明智光秀といった、いまでいう中途採用組もいた。

信長は、そうした中途組も交えて出世を競わせることで、家臣団の活性化を図り、版図拡大を実現していったのである。

さらに付け加えると、信長は部下の才能を掘り起こすこともした。

たとえば、秀吉と同時期に信長に仕えた人物として、前田利家がいる。家柄でいえば利家の方が上で、武功面でも、「槍の又左」の異名をとるほどであったので、秀吉より早く出世してもおかしくはなかった。

しかし実際には、秀吉の方が早く出世している。それは秀吉が、信長によって「話術」を見出されたからであろう。

美濃の斎藤氏攻略の際、秀吉の話術に目を付けた信長は、敵方の寝返り工作に従事させている。秀吉はこれに成功し、出世の階段を上っていくのである。

いずれにせよ、能力のある者を登用できたか否かは、譜代門閥主義が残る戦国時代において、大きな意味を持っていた。

 

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