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第40代・天武天皇~吉野の盟約と皇位継承

2019年10月01日 公開

吉重丈夫

天武・持統天皇陵
天武・持統天皇陵
 

知っておきたい皇位継承の歴史

令和改元という節目の年に、歴代天皇の事績をふりかえります。今回は天武天皇をお届けします。

※各天皇の年齢等については数え年で計算して記しています。
※即位年、在位年数などについては、先帝から譲位を受けられた日(受禅日)を基準としています。
※本稿は、吉重丈夫著『皇位継承事典』(PHPエディターズグループ)より、一部を抜粋編集したものです。
 

第40代・天武天皇(世系30、在位14年)

舒明天皇の第三皇子として誕生された大海人皇子で、母は舒明天皇の皇后である皇極天皇=斉明で、先々帝・天智天皇は同母兄である。皇統譜には生年について記載がなく、誕生年が不詳である。

皇紀1328年=天智7年(668年)2月23日、天智天皇の皇太弟となられる。

皇紀1331年=天智10年(671年)12月3日、兄・天智天皇が崩御される。

天智天皇が崩御される直前、大海人皇子は皇太弟を辞され、出家して妃・鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ)を伴って吉野に入られる。謀反・反乱の意思なしということを示すため、保有していた武器は悉く公に納められた。

皇紀1332年=弘文元年・天武元年(672年)7月23日、大海人皇子が壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)に勝利する。

皇紀1333年=天武2年(673年)2月27日、壬申の乱の翌年、飛鳥浄御原宮にて即位された。即位と同時に妃の鸕野讚良皇女(天智天皇の皇女で後の持統天皇)を皇后に立てられ、飛鳥浄御原宮に宮を置かれた。

11月16日、大嘗祭を催行される。
 

吉野の盟約

皇紀1339年=天武8年5月5日、吉野へ行幸され、そこで第二皇子・草壁皇子(母は皇后・鸕野讚良皇女)を後嗣と定められ、お互い助けあって相争わないことを他の皇子たちに誓わせられた。

皇位継承を巡る争いを避けるための盟約でもあった。

第一皇子は7歳年長の高市皇子で、胸形徳善の女である尼子娘を母とする。母の身分で草壁皇子が皇嗣に選ばれた。胸形徳善は筑紫宗像地方の豪族である。

参加されたのは草壁皇子、大津皇子、高市皇子、忍壁皇子、川島皇子、施基皇子(志貴皇子)の6人で、うち川島皇子と志貴皇子が天智天皇の皇子で、他の4人は天武天皇の皇子である。ここで天武天皇の明確な意思として後嗣は草壁皇子と定められた。

皇紀1341年=天武10年(681年)、吉野の盟約通り、第二皇子・草壁皇子が二十歳で立太子される。

第一皇子に高市皇子(草壁皇子の異母兄)がおられたが立太子させられなかった。母が筑紫宗像郡の豪族・胸形(宗形)徳善の娘の尼子娘と、身分が低かったためであろうか。

皇紀1343年=天武12年春2月1日、第三皇子・大津皇子(21歳)が初めて朝政を執られる。

皇紀1346年=天武15年7月20日、年号を「朱鳥」と定める。

皇紀1346年=朱鳥元年(686年)9月9日、天武天皇は在位13年にして崩御された。生年不詳のため宝算についても分からない。『古事記』『日本書紀』の編纂を命じられた天武天皇がご自身の生没年を不詳にされたことの意味はよく分からない。

先に新しく定められた年号「朱鳥」が天武天皇崩御によってまた廃止される。



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