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伊達政宗による父・輝宗射殺事件は、ほんとうにやむをえなかったのか?

2019年10月25日 公開
2023年07月31日 更新

鈴木眞哉(歴史研究家)

伊達政宗

歴史もののテレビドラマが果たしている役割は大きい。ことに大河ドラマには教科書にはない物語性があり、歴史知識を深めることができる。

しかし、ドラマチックな合戦や名場面にはフィクションが多く含まれており、必ずしもすべて真実の歴史を伝えているとは言えない。戦国時代もまた然り。やはり一度は通説を疑ってみることも重要なのではないだろうか。

※本書は、鈴木眞哉著『戦国時代の大誤解』より、一部を抜粋編集したものです。
 

伊達政宗はけっこうやばい人だった?

伊達政宗というのは問題の多い人で、ずいぶんきわどいこともやっている。その最たるものが〈父親殺し〉の疑惑だろう。いや、疑惑というより、これは事実であって、政宗にどこまで責任があるのかが問題になるだけである。

事実関係をざっと記しておくと、天正13年(1585)10月、伊達家に降参した奥州二本松城主の畠山義継が、宮森城にいた政宗の父・輝宗のところへ挨拶にやってきた。帰りぎわに義継は突然、輝宗をつかまえ、自分の城に連れ去ろうとした。小浜城にいた政宗は、知らせを聞いて駆けつけたがどうしようもない。

結局、取り巻いていた伊達勢から鉄砲を撃ちかけ、義継主従50余人と伊達輝宗は、すべて撃ち殺されてしまった。

当然、この銃撃に政宗がどうかかわっていたのかが気になってくるが、伊達家の公式記録は、ずいぶん苦労している。輝宗が“わしごと撃て”と叫んだので撃ったとか、政宗は鷹狩りに出ていたので、到着したときには、すでに輝宗は死んでいたとか、釈明に努めている。

このとき現場に居合わせた伊達成実の書いた「伊達日記」には、遠巻きにした伊達勢のなかから、だれかわからないが鉄砲を撃った者がいて、それにつられてだれの命令ということもなしに、鉄砲を撃ちかけたとある。その結果、義継主従も輝宗も皆殺しとなったというわけである。その気もなかったのに、群集心理でそうなりましたみたいな書きようだが、それなら輝宗を連れ去られてもよかったのかと問い返したくなる。

後世の第三者は、そんな甘いことは言っていない。江戸末期にできた『大日本野史』という歴史書には、輝宗が義継の城に連れ込まれては一大事だから、政宗は、父親もろとも撃たせたのだとある。それでも義継が輝宗を刺してから自殺したことにしているのは、直接の死因は味方の鉄砲ではなかったことにする、せめてもの配慮なのかもしれない。

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