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大津皇子謀反事件と第41代・持統天皇の即位

2019年10月15日 公開
2019年10月15日 更新

吉重 丈夫

持統天皇
 

知っておきたい皇位継承の歴史

令和改元という節目の年に、歴代天皇の事績をふりかえります。今回は持統天皇をお届けします。

※各天皇の年齢等については数え年で計算して記しています。
※即位年、在位年数などについては、先帝から譲位を受けられた日(受禅日)を基準としています。
※本稿は、吉重丈夫著『皇位継承事典』(PHPエディターズグループ)より、一部を抜粋編集したものです。

皇位継承事典
 

第41代・持統天皇

世系31、即位46歳、在位11年(称制期間を含め)、宝算58歳

皇紀1305年=大化元年(645年)、中大兄皇子(天智天皇)の第二皇女として誕生された鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ)で、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘・蘇我遠智娘(そがおちのいらつめ)である。

皇紀1317年=斉明3年(657年)、13歳で、叔父の大海人皇子(後の天武天皇)の妃となられた。また中大兄皇子(天智天皇)は鸕野讚良皇女(第二皇女)の他に、大田皇女(第一皇女)、大江皇女、新田部皇女の4人を弟の大海人皇子の妃とされた。兄・天智天皇の皇女4人を弟・天武天皇の妃とされたのである。いずれも大海人皇子にとっては姪に当たる。

皇紀1322年=天智元年(662年)、筑紫の娜大津(博多湾)で鸕野讚良皇女は草壁皇子を産まれ、翌天智2年には天智天皇の第一皇女の大田皇女が大津皇子を産まれた。しかし天智6(667年)2月、妃・大田皇女が薨去され、鸕野讚良皇女が大海人皇子の妃の中で最も地位が高くなった。

皇紀1331年=天智10年(671年)12月3日、兄の天智天皇が崩御される。

天武天皇は、即位された翌天武2年の2月27日、妃・鸕野讚良皇女を皇后に立てられる。皇后は夫・天武天皇の良き助言者で、政治面でも輔弼の任を果たされた。

皇紀1339年=天武8年(679年)5月5日、夫・天武天皇と吉野へ行幸される。

そして吉野で、天皇は草壁皇子を次期天皇と決められ、6人の皇子(草壁皇子、大津皇子、高市皇子、忍壁皇子、川島皇子、志貴皇子)に、「これから草壁皇子を助けてお互い相争わない」ことを誓わせられた(「吉野の盟約」)。

皇紀1341年=天武10年(681年)2月、「吉野の盟約」から2年後、草壁皇子(20歳)が予定通りに立太子される。

皇紀1345年=天武14年(685年)、天武天皇がご不例となられ、皇后・鸕野讚良皇女は皇太子・草壁皇子と共に天皇に代わって朝政を執られる。

翌皇紀1346年=天武15年(686年)7月15日、天皇は「天下の事は大小を問わず、悉く皇后及び皇太子(草壁皇子)に報告せよ」と詔され、持統天皇・草壁皇子が共同で朝政を執られるようになる。この年7月20日、元号を朱鳥と定める。

そしてこの年朱鳥元年(686年)9月9日、天武天皇が崩御され、皇后は即位式を催行されないまま称制して政務を執られる。持統天皇称制元年とし、元号の朱鳥はまた使用されなくなった。

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