歴史街道 » 本誌関連記事 » 第45代・聖武天皇への皇位継承~藤原四兄弟と長屋王の変

第45代・聖武天皇への皇位継承~藤原四兄弟と長屋王の変

2019年11月01日 公開
2019年11月01日 更新

吉重丈夫

長屋王の変と藤原四兄弟

皇紀1389年=神亀6年(729年)2月10日、聖武天皇が即位されて5年後、「長屋王の変」が勃発する。

塗部君足と中臣宮処東人が「左大臣・長屋王は密かに左道(妖術)を学びて国を傾けんと欲す」と密告する。先の皇太子・基王の薨去が長屋王の左道によるものと密告したのであった。

これを受けて、藤原宇合(藤原不比等の三男で藤原式家の祖)らが率いる六衛府の軍勢が、長屋王の邸宅を包囲する。そして翌11日、舎人親王や新田部親王(ともに天武天皇の皇子で長屋王の叔父)を遣わし尋問させた。その結果、翌12日、長屋王(46歳)は自害され、その妃の吉備内親王(草壁皇子・元明天皇の皇女)と子の膳夫王(かしわでおう)、桑田王、葛木王、鉤取王らも自害され薨去された。遂に藤原氏は長屋王一族を滅ぼしたのである。

2月13日、詔「吉備内親王及び長屋王を葬り給ふの勅」を発せられる。

2月18日、長屋王の兄弟姉妹とその子孫は男女を問わず全て勅により赦免される。長屋王さえ抹殺してしまえばいいということだったのであろうか。

漆部君足らの密告は讒言であったとする説が根強い。藤原一族が皇位継承などで対立する皇親勢力の中心人物を、殆ど理由もなしに軍事力によって攻め滅ぼした。

長屋王薨去の半年後、天平元年8月24日、聖武天皇は詔「立后の宣命」を発せられ、夫人であった光明子を皇后に立てられた。ここで皇族以外の女性が史上初めて皇后に立てられる。皇族以外から立后する先例を作った。藤原四兄弟が長屋王を排除することによって皇親勢力を抑え込み、藤原政権を樹立する。

しかし、この四兄弟は、8年後の天平9年(737年)、天然痘により全員死去することになる。

なお、藤原四兄弟とは長男・藤原武智麻呂(藤原南家の祖)、次男・藤原房前(藤原北家の祖)、三男・藤原宇合(藤原式家の祖)、四男・藤原麻呂(藤原京家の祖)で、いずれも藤原不比等の息子等であり、鎌足の孫たちである。4月17日房前が、7月13日麻呂が、7月25日武智麻呂が、そして8月5日宇合がそれぞれ相次いで死去した。武智麻呂は正一位が授けられ左大臣に任じられたその日に死去している。

この長屋王の変をきっかけに、藤原四兄弟の一族が天皇に妃を入れ、天皇の外祖父となって、権勢を振るい、皇位継承にも大きく関わってくることになる。藤原一族が、これからの皇位継承に、良きにつけ悪しきにつけ絶大なる影響を及ぼすようになった。

『続日本紀』には「長屋王を誣告」と記載されているので、同書が成立した皇紀1457年=延暦16年(797年)(桓武天皇の御世)には朝廷内では、長屋王が無実の罪を着せられて滅ぼされたことが公然の事実となっている。

皇紀1398年=天平10年(738年)1月13日、長屋王一族が滅ぼされて九年後、光明皇后を母に持つ阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)が21歳で立太子される。

10歳年下ではあるが11歳になる異母弟の安積親王(聖武天皇の第二皇子、母は県犬養広刀自)がおられたのにここで阿倍内親王が立太子される。母が藤原氏でないために、安積親王が立太子されず、母が藤原氏の内親王が立太子される。親王がおられるのに内親王が立太子されるという極めて異例の、これまでにはない事態が発生した。

藤原四兄弟亡き後、橘諸兄が右大臣となる。橘諸兄は敏達天皇の五世孫の皇族である。初め葛城王を称し、天平8年に臣籍降下され、母・橘三千代の姓である橘宿禰を継ぐことが許され、以後は橘諸兄と称した。敏達天皇の曾孫・美努王(みぬおう、大宰帥)の王子で、初代橘氏長者(橘氏の棟梁)となる。

皇族の橘諸兄が政務を執ることで藤原一族との勢力の均衡を保った。

しかしこの橘諸兄も、後に次の孝謙天皇の御世、皇紀1415年=天平勝宝7年(755年)、聖武上皇のご不例に際して、宴席で不敬の言があったと讒言され、翌8年2月2日、辞職を申し出て引退し、失脚している。翌9年1月6日に死去した(74歳)。

また、この年天平10年(738年)7月10日には、故・長屋王を誣告した中臣宮処東人が大伴子虫に斬殺され、「長屋王の変」の後の悲劇が続く。

皇紀1404年=天平16年(744年)閏1月13日、聖武天皇の第二皇子・安積親王が17歳で薨去される。

この年の閏1月11日、安積親王は難波宮に行く途中、桜井頓宮に立ち寄られ、そこで脚気になり恭仁京に引き返されるが、2日後の後の13日に突然薨去された(17歳)。藤原仲麻呂(武智麻呂の次男)に毒殺されたという説もある。本来であれば安積親王が立太子されるべき地位にあられたので、毒殺の噂が立ったのももっともであった。

皇紀1408年=天平20年(748年)4月21日、先帝の元正上皇が69歳で崩御される。

皇紀1409年=天平感宝元年(749年)7月2日、天皇は在位25年7ヶ月(皇統譜には在位26年とある)で皇女の阿倍内親王に譲位され、出家された。

皇紀1416年=天平勝宝8年(756年)5月2日、出家されて7年後、56歳で崩御される。

歴史街道 購入

2024年5月号

歴史街道 2024年5月号

発売日:2024年04月06日
価格(税込):840円

関連記事

編集部のおすすめ

第43代・元明天皇への皇位継承

吉重丈夫

第42代・文武天皇への皇位継承

吉重丈夫

大津皇子謀反事件と第41代・持統天皇の即位

吉重 丈夫

わが国の皇位継承の歴史を知る

吉重丈夫
×