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なぜ日野富子は「金の亡者」になったのか?

2019年12月03日 公開
2019年12月03日 更新

大村大次郎(評論家・元国税調査官)

応仁の乱
 

日野富子は室町幕府の脆弱な財政の象徴だ

日野富子の財力を示すエピソードとして、応仁の乱の際に出陣していた畠山義就に一千貫を貸していることがよく取りざたされる。畠山義就はこの直後に京都から撤退しているので、和平工作だったともいわれ、撤退費用の工面だったともいわれる。つまりは、畠山に一千貫を差し出すことで、撤兵させたということだ。

また日野富子は、応仁の乱後、除目叙任や春日祭など、戦乱で中断していた朝廷や寺社の祭礼を復活させた。そのため、相当の金を持っているのではないか、と噂されるようになったのだ。

日野富子の悪名を決定づけたのは、京都七口の関所問題である。

足利幕府は、文明10(1478)年、京都に入る七つの入り口に関所を設けた。そして、通行税を取ることにしたのだ。これは応仁の乱で、荒廃した内裏の修造費用を捻出するためという名目であり、日野富子が画策したといわれている。

日野富子の悪口をさんざん書いている『大乗院寺社雑事記』には、「この通行税は内裏修造費用に使われず、日野富子が自分のものにした」と記されている。

こうして見てみると、確かに日野富子は自分の権力欲しさに、身内同士の争いを招き、しかも争乱の最中に金儲けをしており、「稀代の悪女」というようなイメージを受けるが、彼女の所業を詳細に見ていくと、決してそう簡単に「悪い女」として片づけられるようなものではない。

まず、富子がため込んだとされる七万貫という銭について検証したい。当時の七万貫は現代の貨幣価値にして40億円以上とされている。これは個人としての貯蓄であれば、確かに大きい。

が、幕府の資産としてみた場合、まったく大した金額ではない。

たとえば上杉謙信は、柏崎と直江津の二つの港からの関税収入だけで、年間四万貫を得ていたとされる。また織田信長は堺を抑えたときに堺の会合衆から二万貫の矢銭(軍事費税)を徴収している。有力戦国武将にとって、数万貫程度の金はすぐに手に入るし、戦争をするにはその程度はすぐに必要だったのだ。戦国時代は銭不足の時代でありデフレが起きていたので、日野富子の時代よりも、上杉謙信や織田信長の時代の方が銭の価値は高い。

だから、日野富子が幕府の御倉に七万貫をため込んでいたとしても、それほど大したことではないのだ。

そして、応仁の乱に出陣していた畠山義就に和平工作か撤退費用として一千貫を渡したというのも将軍家としては情けない話である。もし将軍家の軍事力が充実しているならば、和平工作などせずとも実力で排除できるわけだ。それを一武将に撤退してもらうために、一千貫程度のお金を渡しているわけである。

つまりは日野富子としては軍事力がなかったので、金でなんとかするしかなかったということなのである。

また京都七口の関所問題も、室町幕府の財政事情がにじみ出ているのだ。

室町幕府は、応仁の乱が終息した直後から、荒廃した京都の再建費用捻出に奔走していた。

文明10(1478)年から、総奉行を置いて諸国から段銭の徴収をしようと画策した。段銭というのは、田畑の一段(一反)あたりに課せられる臨時税のことである。

しかし諸国はこの段銭の徴収になかなか応じず、思ったように費用が集まらなかった。

そのためやむを得ず、将軍家のおひざ元である京都の七口に関所を設け、通行税を取ることにしたというわけだ。

もちろん京都やその周辺の住民は猛反発し、一揆も起きた。足利幕府としては、全国から税を取れないので、京都近郊でより多くを取るしかなかったのだ。それが、日野富子の悪評につながったのである。

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