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最後は自腹で穴埋め!赤穂事件、大石内蔵助はお金をどうやりくりしたのか?

2019年11月22日 公開
2022年07月14日 更新

山本博文(東京大学教授)

※本稿は、山本博文著『東大流 教養としての戦国・江戸講義』(PHP研究所刊)より、一部を抜粋編集したものです。
 

物の価値を克明に記録した大石の帳面

戦国時代が終わって平和な世の中が訪れた江戸時代の前期、社会が安定して経済も繁栄していた元禄時代と呼ばれる時期に、お金の価値もある程度定まってくることになります。このころ起こったのが「赤穂事件」です。映画やドラマ、小説などでもよくテーマにされる忠臣蔵の元になった事件です。

ご存知の通り、江戸城松の廊下で刃傷に及んだ赤穂藩主浅野内匠頭が切腹に処せられ、藩は解散して財産を没収されることになります。この後始末を担当したのが討ち入りの首謀者である赤穂藩家老大石内蔵助です。内蔵助は、藩が所有していた米や船などの資産を売り払ってお金に換え、藩士への退職金として分配しますが、主君の仏事費やお家再興の資金として七百両ほどを手元に残します。一両を十万円として換算すると七千万円ということになり、結構な大金であることは間違いありません。これが結局は討ち入りのための資金として使われることになります。内蔵助は、その使い道を几帳面に『預置候金銀請払帳』という帳面に残しています。

実は大石は、このほかにもいろいろな帳面をつくっていて、そのリストを討ち入り前に赤穂藩主浅野内匠頭の妻である瑤泉院に渡したため、どんな帳面をつくったかはわかっているのですが、帳面そのものはすべて散逸してしまっていました。それが、明治時代になって『預置候金銀請払帳』が箱根神社に奉納されたため、現在でもこの帳面だけ現物が残っているわけです。

この帳面には、当然のことながら当時の物の値段が克明に記録してあって、歴史的にも非常に貴重な史料です。そこで、ここでは、『預置候金銀請払帳』に記録されている、いろいろな物の値段について見ていこうと思います。

まず、この史料から、当時の金銀銭の換算レートを見てみましょう。金一両は、「銀五六匁替え」としています。幕府の公定レートより、金が高くなっています。そして銭は、「一貫文十五匁替え」としています。一貫を九百六十文として計算すると、銀一匁は六十四文ということです。だいたいの換算率がわかると思います。

七百両の使い道として一番大きかったのは、京の紫野の瑞光院に山を寄進し、亡き主君浅野内匠頭のお墓を建てた費用です。それだけで百両以上が使われています。また、お家再興を諦めきれない内蔵助は、人を遣わして幕府の関係者に取り計らってもらうよう頼むわけですが、その際の費用二十両、二十四両と支出を重ねています。また、同志のアジトとして三田に屋敷を購入しますが、これに七十両ものお金がかかっています。
 

バカにならなかった旧藩士たちの出張費

これらは、現在の金銭感覚とは異なるので、その他の支出として、藩士たちが使ったいろいろな費用を細かく見ていこうと思います。

藩の残務整理や討ち入りの打ち合わせなどいろいろな謀議をしなければなりませんが、赤穂城はすでに没収されているので、かつての家臣たちは上方や赤穂などに散り散りになっています。連絡のために人を遣わすと、出張費が必要になります。

たとえば、上方と江戸を往復するためにかかる旅費が、だいたい一人あたり十両です。上方から江戸へはスムースにいって七、八日、少しゆっくり行くと十日ぐらいです。徒歩なので交通費はかかりませんが、その間の宿代、食費などが日数分必要です。バカにならないのが途中にある大井川などの川越しのための料金です。これも、輦台を利用したら百文〜二百文で、背中におぶさっていくといくらといったように、渡し方法で料金が違っていて、しかも、川の水の量が、膝までなのか腹までなのか胸までなのかによってもまた料金が違うなど、複雑な料金体系になっています。加えて、増水していたら渡れないので、水が引くまで待つのに余計な滞在費がかかります。

そもそも橋をかければ川越しは必要ないのですが、江戸を防衛するために、幕府が橋をかけさせなかったようです。もっとも、江戸時代も中期以降になると、攻められる心配もほぼなくなっているので、橋をかけてもよかったのですが、そうすると人足たちや宿場など、川越しの客を当て込んで商売している人たちの収入の道がなくなります。このため、橋を造ろうかという話が持ち上がると、それらの商人が「橋を造らないでほしい。権現様(家康)以来の決まりです」と嘆願するわけです。こうした事情で、結局は橋が造られませんでした(今野信雄『「江戸」を楽しむ』)。

江戸につくと、数日滞在して工作活動するので、こうした費用と合わせ、なんだかんだで、連絡員たちの旅費として一人あたり十両、現在のお金にして百万円を支出していたわけです。

藩のお金だからできるのであって、十両のお金は庶民にはなかなか用意できません。したがって、一般の町民が旅を楽しむということはあまりなかったでしょう。江戸後期になると、みなでお金を出し合い、毎年何人が代表して伊勢参りなどに行く「講」が盛んになったことで、やっと庶民も旅をすることができたのです。

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