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最後は自腹で穴埋め!赤穂事件、大石内蔵助はお金をどうやりくりしたのか?



2019年11月22日 公開

山本博文(東京大学教授)

旧藩士たちへの補助金

それはともかく、旅費のほかに必要だったのが、離散した旧藩士たちへの補助金です。藩が取り潰しになって浪人となった彼らに収入はありません。解散するときに退職金としての一時金を貰っていますが、だんだんと生活が苦しくなってきます。特に下級藩士の場合は貰うお金も少なかったのですぐに底をついてしまったようで、内蔵助に泣き付いてくる者が絶えなかったのです。

たとえば矢頭右衛門七が「飢渇に及んだ」ということで、金三両を用立てています。武林唯七には、「勝手不如意願い」をしてきたので金二両を渡しています。毛利小平太には、討ち入りが近づいたころ、「拠ん所なき入用」があるということで、銀十一匁二分を渡しています。

このあたりにも、毛利小平太が直前に脱盟した理由があるのかもしれません。

そうして、最初は七百両もあったお金がどんどん減っていきます。亡き主君のお墓の建立や、浅野家再興の工作のために費やしていた最初のころで、すでに資金の半分を使ってしまっています。その後も、お互いの連絡のための行き来や、生活費に困った元藩士への援助といったことで出費がかさみました。

やがて、内蔵助たちは事件発生の翌年、元禄15年(1702)の夏に討ち入りを決意して、江戸に下ることにします。そのころには残金が百五十両まで減っていました。

それでもまだ百五十両あると思うかもしれませんが、同志を江戸に下らせるためには最低でも一人三両はかかります。そのころ、同志は120人ほどいたので、全員に配分すると予算オーバーです。また、江戸に着いてからの潜伏先の家賃や決行までの食費、武器の調達といった費用がいります。そこで、大石は討ち入りに参加させる人間を厳選するため、有名な「神文返し」をすることになります。

神文返しというのは、浅野内匠頭が切腹に処せられた後、藩士たちが今後どうするのかについて評議を繰り返し、仇討ちに賛成した全員からとっていた神文、つまり誓約書を本人に返すというものです。事件発生後はまだ頭に血が上っていて、主君の敵を取りたいと願っていた旧藩士たちも、このころになると決意が揺らいでいるかもしれません。そこで、必ず決行に参加する決意の固い者だけを厳選しようとしたわけです。

こうして江戸に行く者が30人ほどになり、どうにか予算内に収めることができました。討ち入りは47人で行いますが、すでに江戸にいる者もいたので、このような数字になります。ただし、内蔵助は家臣二人と潮田又之丞ら同志五人と江戸に下りますが、その支出は書かれておらず、内蔵助の自費で賄ったようです。

ところで、内蔵助は討ち入りの準備を悟られないよう、京の山科にいるときは、芸者遊びなどにうつつをぬかしていたという話もあります。遊ぶ金などどこにあったのでしょうか。

内蔵助自身は千五百石の家老だったので、個人的な資金が手元にあったはずです。赤穂藩の資産を処分してつくった金はあくまで公金ですから、これは残務整理や旧藩士への支援、あるいは、主君の仇を討つための工作資金に使うけれども、自分の個人的な支出には手持ちのお金を使っていたのでしょう。

ドラマなどでは、芸者遊びをしていたことを、昼行燈を装う内蔵助の作戦だったのだというとらえ方をしていますが、それはあくまで物語の中の話。実際には、どう転んでも自分は死ぬしかないとわかっていたので、持っていてもしようがないから、京都で使い果たしてしまえということだったのかもしれません。

遊びで散財するぐらいなら、困窮する旧藩士の援助に回してもいいのではないかという考え方もあると思いますが、そこまで要求するのは酷でしょう。
 

最後は大石の自腹で穴埋め

江戸に出てきた内蔵助を待っていたのは、困窮している江戸組でした。その家賃や生活の補助が必要でした。

たとえば、磯貝十郎左衛門には二カ月分の家賃として金一両、堀部安兵衛には同志6人で住んでいた本所の長屋の一カ月分家賃として銀二十六匁を渡しています。現在の貨幣価値に換算すると、一カ月分の家賃がそれぞれ5万円と5万2千円ということになります。長屋というのは六畳一間に、土間と竈かまどが付いたぐらいの部屋なのですが、何やら、現在の都内の独身用アパートにも似ていて、それが5万円前後ということは、今も昔も都内の賃貸物件相場はさして変わらなかったように思えます。

家賃のほかに必要なものは食費です。食費のことを帳面では「飯料」と記載しており、たとえば、間喜兵衛ら四人に対して、一カ月分の食費としてまとめて金二両を渡しています。計算すると、だいたい一人あたり月に二分、つまり一両の半分ですから5万円が、成人一人分の一カ月の食費だったことがわかります。

潜伏生活を送る浪士たちにとって、これがぎりぎりの生活だったようで、なんとか食べる物と住む所だけは確保できたものの、着物などほかの生活用品に回すお金はなかったようです。

夏に江戸に出てきた大石瀬左衛門は、だんだん寒くなってくるのに薄い一重の着物しか持っていなくて、「袷あわせの着物がなくて本当に困っている。着物を買うお金を貸してくれないか」と懇願する手紙を知人に送っています。

また、体調を崩す同志には、薬代も渡しています。前原伊助が病気になったとき、服用の朝鮮人参一両(約15グラム)の代金として金二分を渡しています。朝鮮人参は1グラムが3千円以上もしたのです。このほか、江戸に行く道中で患った毛利小平太のために、医者にかかる費用として金一両を使っています。

討ち入りの準備のためには、武器の調達も必要でした。藩士としての身分は失っても武士は武士なので、大小の刀は持っています。しかし、実戦に必要な槍や、鉢金(兜の一種)、着込み( 鎖帷子)などを購入しています。

たとえば、間十次郎と新六の兄弟は、弓と槍の購入代金として金一両を内蔵助に申請しています。間瀬孫九郎には槍代として金二分を渡しています。つまり、槍も弓も、当時5万円ぐらいで買えたようです。意外と安いように感じますが、現代だとこれらのものは骨董品の扱いになりますが、当時は実用品だったので、作られる数も売れる数も段違いだったことが背景にあると思われます。

とはいえ、実際には、内蔵助は自分の手持ち資金を討ち入り準備のためにも使っていたようで、『預置候金銀請払帳』に載せられた出金だけでは説明のつかないものが多数あります。一部は、別にあった主君の正室瑤泉院からの預かり金が使われたかもしれません。

しかし、それにしても江戸下りのときには、行動を共にしていた仲間には自分の支出と一緒になるのでポケットマネーで払っていますし、ほかに公金に手を付けている様子は窺えません。討ち入り直前、公金をすっかり使い切った上、最終的には七両二分不足しており、自腹で穴埋めしたと書いています。

こういう公私をわきまえた使い方は立派です。公金をまるで自分の財布のように勘違いしている政治家の方々にも是非見習ってほしいものです。



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