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翻弄された淡路廃帝・淳仁天皇(第47代)~道鏡の台頭と藤原仲麻呂の乱

2019年11月22日 公開
2023年10月04日 更新

吉重丈夫

藤原仲麻呂の乱

皇紀1424年=天平宝字8年(764年)9月5日、道鏡の台頭とその権勢に脅威と不安を感じた仲麻呂は、舎人親王の第三王子で異母兄の船王と協議し、孝謙上皇の非を訴えようとされたが、これが反乱とされた。舎人親王の第四王・池田王は乱を想定し、すでに夏頃より兵馬を集結させ戦闘準備を開始しておられた。両親王ともに、淳仁天皇の異母兄弟である。孝謙上皇と道鏡体制には両者ともに批判的だったのである。それに当然のことながら、皇統の危機を憂えておられた。

ところが数日後の9月11日、密告でこの仲麻呂らの動きを知られた孝謙上皇は、謀反の発生として、少納言・山村王(用明天皇の皇子・来目皇子の末裔)を淳仁天皇のもとに派遣して、皇権(軍事行動)の発動に必要な鈴印(御璽と駅鈴)を回収させ、仲麻呂らの朝廷方が軍事行動を起こせないようにされた。そして勅命で、仲麻呂一族の官位を剝奪し、藤原の氏姓も剝奪され、全財産の没収を宣言された。

仲麻呂としてはこれに従うか、戦うかの岐路に立たされ、結局、戦うことを決意する。仲麻呂は一族を率いて平城京を脱出して一旦宇治へ入り、それから仲麻呂が長年国司を務め、彼の地盤ともなっていた近江国の国衙を目指し移動した。孝謙上皇は造東大寺司(長官)であった吉備真備を召して仲麻呂誅伐を命じ出兵させる。

数日後の9月18日、仲麻呂討伐将軍に任ぜられた備前守・藤原蔵下麻呂(ふじわらのくらじまろ、宇合の九男)の援軍が、吉備真備の討伐軍に加わって、ついに仲麻呂軍は敗れる。

仲麻呂一家は殺害されたが、この時、新田部親王の子で、天武天皇の孫に当たる塩焼王も殺害された。

淳仁天皇は仲麻呂の乱が起きた後も、仲麻呂らと行動を共にされることはなかったのであるが、「仲麻呂との関係が深かった」ことを理由に、10月9日、天皇廃位を宣告され、親王の待遇をもって淡路国に配流とされた。在位7年(6年2ヶ月)であった。

上皇が天皇を廃位するという極めて異常な事態が起きた。

廃位された淳仁天皇に太上天皇号(上皇)が奉られることはなかったが、この淡路の先帝・淳仁天皇のもとに通う官人らが多く、また都では当然のことながら、先帝の復帰(重祚)を図る勢力もあった。

そこで翌皇紀1425年=天平神護元年(765年)2月14日、「流人逃亡に付、淡路の国守を

戒め給ふの勅」が発せられる。

淳仁天皇が孝謙上皇から廃位された後も、商人であると偽って淡路に通う官人が多く、危機感を持たれた孝謙上皇(称徳天皇)は、廃された淳仁上皇の監視役である現地の国守・佐伯助らに監視の強化を命じられた。

10月22日、淳仁天皇は逃亡を図られたとして捕らえられ、翌日23日、院中で崩御された。

宝算33歳であった。病死と伝えられているが、殺害されたとも推定される。葬礼も行われていない。

崩御後も敵対した孝謙上皇(称徳天皇)の意向により長らく天皇と認められず、廃帝または淡路廃帝と称されていたが、明治3年7月23日に、弘文天皇(大友皇子)、仲恭天皇とともに明治天皇から「淳仁天皇」と諡号が賜られた。孝謙天皇=称徳天皇に翻弄された悲劇の天皇といわざるを得ない。わずか7年の在位であった。

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