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「徳川幕府の成立」と「強国スペインの衰退」の深い関係

2020年01月27日 公開
2020年02月04日 更新

神野正史(じんのまさふみ:予備校講師)

 

叛乱を鎮圧できたフランスとイギリスがたどった両極の道

これに対して英仏は、"最寒期"到来による国難を絶対主義を背景とした植民地獲得(英)や戦争介入(仏)など、外への発展で乗り切ろうとします。

しかし今回の最寒期に伴う混迷は、それを以てしても吸収しきれず、やがて国民の不満は絶対王権へと向かい、その怒りがこの時代の末期(1640年代)に爆発してしまいます。

それこそが、イギリスでは史上初の革命「清教徒革命(ピューリタン革命、1642~49年)」であり、フランスでは貴族叛乱「フロンドの乱(1648年」です。

このように、この時代の英仏は「前時代までに絶対主義を確立」し、国内問題の解決を"外(植民地獲得・対外戦争)"に求めたものの、どちらも"絶対王権への叛乱"に帰結する─と足並み揃えた歴史を歩みましたが、ここから先の両国の歴史は大きく分かれていくことになります。

その転換点となったのは、その"王権に対する叛乱"の鎮圧に成功したか、失敗したか、です。

フロンドの乱の鎮圧に成功したフランスでは、それにより国内において王権に逆らい得る勢力がいなくなり、次の時代で絶対王権の絶頂期を現出する足掛かりとなりました。

これに対し、イギリスは叛乱鎮圧に失敗したどころか、それが叛乱に収まらずに革命化してしまい、王権そのものが倒れてしまいます。

その首謀者O・クロムウェルは絶対王権を打倒したあと、王権を憎むあまり、国体まで「王国(キングダム)」から「共和国(リパブリック)」に変えてしまいました。

「何人(なんぴと)たりとも"歴史の流れ"には逆らえない」という歴史の法則は絶対です。

したがって、感情的になって絶対王権を倒したところで、これを倒した彼自身が"絶対君主も裸足で逃げ出す独裁者"となってこの国を牽引していくことになるだけです。

こうして、王国を懐かしむ声が高まり、結局、この時代の末には王政復古が行われることになります。

 

最寒期の危機に翻弄されたバルト海沿岸の国家と、被害の少なかったオランダの覇権

食糧が少なくなれば、残されたわずかな富の争奪戦が起きるのは世の常です。

ただでさえ緯度が高く、寒い気候のバルト海沿岸の国々では、こたびの"最寒期"の危機をバルト権益を独占することで乗り越えようとします。

こうしてバルト沿岸の国々は相争い、以降、典露戦争(スウェーデン×ロシア)・典波戦争(スウェーデン×ポーランド)、さらには三十年戦争・典丁戦争(スウェーデン×デンマーク)、そして第1次北方戦争など、「バルト海争奪戦」とも総称すべき戦乱を巻き起こすことになりました。

これらの争奪戦を勝ち抜き、見事「バルト覇権」を手に入れたのが、グスタフ2世・クリスティーナ・カール10世と3代にわたってこの争奪戦を戦い抜いたスウェーデンでした。

以降のスウェーデンは別名「バルト帝国」と呼ばれ繁栄したのとは対照的に、敗れたデンマーク・ドイツ・ポーランドは衰退していき、ロシアは新たな"儲け口"を探すため、シベリア方面へと領土拡大していくことになります。

このように、各国が"最寒期"の危機に悶絶する中、比較的被害が少なかったのがオランダです。

寒冷気候によってもっとも被害を受けるのが農業であり、どの国も農業に大きく依存していたため大打撃を受けましたが、オランダは"商人国家"だったため、その被害も他国に比べれば小さく、諸国が悶絶しているのを横目に、オランダはヨーロッパを飛び出し、新大陸やアジア・アフリカ圏に貿易拠点を作って世界を相手に交易に勤しみます。

しかし、そのことは裏を返せば、"最寒期"が明け、ヨーロッパ諸国が力を恢復しはじめれば、オランダの繁栄にも影が差すことを意味します。

事実、"最寒期"が収まってきた17世紀の後半になると、海に進出してきたイギリスの挑戦を受け、以降、守勢に転じていくことになりました。

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